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【最終回】いつも心にヴェルサイユを

2 10月 2020
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最後にもう1度訪れた際のヴェルサイユ宮殿

ヴェルサイユに居を構えてから2年と2か月、ついにこの地を去る時がやってきました。右も左もわからないままフランス生活を始めた日が昨日の事のような、本当にあっという間の留学生活でした。
そういうわけで、今回は帰国に向けた撤退の模様と、留学の総括を書きたいと思います。
先週のリサイタルが終わってから一夜明けた火曜日から部屋の片づけを開始。その前から少しづつ着手する予定でしたが、まだ使うものが多いのと、追い詰められないとなかなかやらないのもあってあまり進捗は良くありませんでした。夜はパトリックの家に行って晩餐会、最初に私が蕎麦を出し、続いてパトリックがフランス料理の茄子の炒め物を出し、最後に私が昼間作ったわらび餅を出す日仏文化交流。蕎麦を食べ終わった後はちゃんと蕎麦湯を飲みましたし、わらび餅は彼らにとって非常に興味深いものだったようです。
水曜日から日曜日までは、なんとドイツ旅行に出かけました。帰国準備をしないといけないのは分かっていながら、やはりどうしても1回ドイツには行っておきたかったのです。もっと早く行けばよかったんですけどね。ベルリン、ライプツィヒ、ノイエンマルクト、バイロイト、ニュルンベルク、ネルトリンゲン、マンハイムを訪れました。音楽関係ではフリードリヒ大王のロココ趣味を直接感じるためベルリンのシャルロッテンベルク宮殿とサン・スーシ宮殿へ、ライプツィヒではもちろんバッハが勤めていた聖トーマス教会と聖ニコラス教会、バッハ博物館、シューマン邸、バイロイトでは規模は小さいながらもバロック様式の劇場ががほぼそのまま現存する数少ない例であるバイロイト辺境伯劇場と外観だけヴァーグナーのバイロイト祝祭劇場、あと懲りずに宮殿観光、マンハイムではマンハイム楽派の作曲家が活躍したマンハイム宮殿へ行きました。その他はドイツといえばやはり鉄道ということで、各地に点在する蒸気機関車を中心とした博物館に行きました。あとはやはり人間の負の歴史もしっかり見ておこうと思い、ベルリンの壁や東西冷戦の痕跡が残る場所、そしてベルリン近郊にあるザクセンハウゼン強制収容所に行きました。ドレスデンやハンブルク、ケルンなどにも行きたかったのですがどうしてもこれ以上予定を詰めることができませんでした。
そんなわけで月曜日になり、本格的に片付け開始。掃除は来た時よりも美しくをモットーに念入りに行っていきましたが、荷造りの方は遅々として進まず…。あとやはり最後にもう一度ルーヴル美術館とヴェルサイユ宮殿に行っておきたくて、それでも時間を使い水曜日の夜になってもかなりの物がパッキングされていない状態になってしまいました。もうこうなったら徹夜作業、最後の夜で感傷に浸る間もなく朝を迎えました。厄介なことに出発の朝はあいにくの雨、桐朋時代からの先輩が大変ありがたいことに手伝いに来てくれましたが、2人でも2つのスーツケースと段ボール箱を運搬して雨の中を行くのは困難でした。しかもリーヴ・ゴーシュ駅にたどり着いてみるとC線が運転見合わせ状態になっていて、改めてヴェルサイユ・シャンティエ駅まで歩く羽目に。ちょうど9月いっぱいでナヴィゴが期限を迎えてしまい、切符を買おうと思ったら月初めでナヴィゴをチャージする人が多くラッシュ時であったこともあって券売機は長蛇の列…。改札を通った後は改めて階段が多いのを感じながら、国鉄、メトロを乗り継いでオペラからロワシーバスに乗車しました。価格も高く酔うので嫌いなのですがもう必要悪です。空港に着く頃には段ボール箱が濡れてかなり強度が落ちており、大きいラップでぐるぐる巻きにするパッキングサービスを初めて利用しました。出国審査は空いていてすぐ終わりましたが手荷物検査が全然進まず20分ほど待たされ、気が付いたら搭乗時間ぎりぎりに。急いで携帯SIMの解約電話をかけて、飛行機に搭乗しました。さようなら、ありがとうフランス。
徹夜したので飛行機の中で良く寝られ、飛行時間が短く感じました笑。さて成田空港に着いてみると、3月の帰国時とは違い唾液採取の検査場が設けられ、結果が出るまで1時間ほど待ちました。スタッフの装備もフェイスシールドが追加されています。いや、これ3月以前からやるべきだったでしょう?あの時はこのブログにも書きましたが中国とイタリアのそれぞれ一部地域に滞在していた人は自己申告して専用レーンに行くようになっていました。対策が遅すぎます。やりようによっては内需を維持して経済をあまり落ち込ませないことだってできたはずです。
あと、検査結果を待っている間周りから会話がちらほら聞こえてきましたが、やはり陽性=患者だと思っている人が多いようです。それと、この検査の精度っていかばかりなんでしょうね。
その後は父の運転する車で帰宅しました。さて14日間の引きこもり!

それでは次に、留学の総括をしたいと思います。
世界中の録音や動画を瞬時にインターネットで検索できるようになり、世界のトッププレーヤーも数多く日本にやってくるようになった現代において、果たして留学することに大きな意味はあるのかと留学前は思っていました。しかし実際に留学してみると、そんな考えは完全に誤りであることが分かりました。西洋音楽とは即ち西洋文化であって、西洋の言語、宗教、習慣や建築、美術、文学、演劇など様々な他分野の芸術と相関し、音楽だけを切り離すことはなかなか難しいものです。日本で楽器を習って楽典やソルフェージュをやっているだけでは、西洋音楽に携わるにあたり最低限必要な技術と知識を習得しているにすぎません。本当の意味で西洋音楽を学ぶには、例え1回でもヨーロッパに渡って、歴史的な街並みを歩いたり歴史的建築物の中で演奏してみることは必須の経験だと今は考えています。特にヴェルサイユ地方音楽院は1672年からある、ヴェルサイユ宮殿の一部を成していると言っても良い建物で、一階はあまり改装が行われておらず17-8世紀の音響を学ぶには良い環境でした。響きが良い、というと勿論そうなのですが、良い音を出せば良く響き、悪い音を出せば悪く響くのです。どういう音が良い音なのか空間が教えてくれるという、日本ではしたことのない体験をしました。もちろんヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂、鏡の回廊などもそうであることは言うまでもありません。西洋音楽に携わろうという人、特に古楽を専攻したい方は歴史的建造物の中でこういう体験をすることを強くお勧めします。
次に、ことフランスのバロック時代の音楽を勉強したかった私にとってヴェルサイユは最高の環境でした。宮殿を始め古い建物が多く残っているのはもちろんのこと、このレパートリーに非常に明るいパトリック・コーエン=アケニーヌの下で勉強できたこと、ヴェルサイユ・バロック音楽研究センターのプロジェクトである、学生歌手や少年少女合唱団と毎週のように参加した王室礼拝堂の木曜演奏会、大小さまざまな弦楽器を使用する24のヴィオロンのオーケストラプロジェクトに参加できたのは非常に大きな喜びでした。長年指導にあたっているオリヴィエ・シュネーベリOlivier Schneebeliはかなりの高齢でそろそろ引退する時期だと思うのですが、毎回エネルギッシュに指揮を執る姿がとても印象的でこちらまで力をもらうようでした。また幸いほとんど全ての機会において首席を担当させてもらい、アンサンブルを牽引する役割も学ぶことができました。
その中で残念だったのは、やはり最後まで私のフランス語コミュニケーションが完全ではなかったことです。そもそも自分の考えを他人に分かりやすく伝えることが下手だという問題もありますが、やはりヴェルサイユにいるのですからもう少し美しく趣味良い話し方をしてみたかったです。それでも一年目に語学学校に通い詰めたことで少しはレベルが上がったのか、例えば電気の契約の電話では着いた時はほぼ全く内容が分かりませんでしたが、火曜日に契約終了の電話をした時には8割くらいは分かるようになっていました。ほぼ同じような内容だったと思うのでとても懐かしかったです。
あとは、できれば26歳になるまでにもっといろいろな美術館や博物館に入り、旅行をたくさんしたかったです。いつでも行けると思っているとなかなか行かず機を逸してしまいますね。かなり多くの機会において25歳以下の学生は優遇されるので、留学を考えている方は是非早いうちに行くことをお勧めします。

目を閉じると今でも思い浮かぶのは、まるでオペラの一場面のようなプラタナスの並木道と、その先に聳え立つ壮大で美しいヴェルサイユ宮殿、そしてそこで一緒に活動した先生方や同僚の顔です。私の心の中にはいつもヴェルサイユがあって、いつでも記憶の中を旅することができます。例え2年間だけでもヴェルサイユで活動できて本当に良かったと、これからもそう思い返していくことでしょう。

今回でこのブログは終了になります。2年間に渡りご愛読いただきまして、誠にありがとうございました。

【完】

国王戴冠とシャンパンの町ランス

9 9月 2020
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ノートルダム大聖堂の正面で記念写真

先週はフランスに滞在していた母と共にシャンパーニュ地方の町、ランスへ行ってきました。
パリの東駅からTGVに45分程度乗れば着いてしまうランス、歴代国王が戴冠した町だけあって1度行かなければと思っていながらなかなか実現せずにいました。近いと逆にいつでもいいやと思ってしまいますよね。しかし今回、母が喜ぶシャンパンのセラーも目的の一つとしてついに行くことになりました。
駅を降りると、正面にさりげなくジャン=バティスト・コルベールの銅像があります。ここは最後帰るときに通ったのですが、ルイ14世の財務を支えたコルベールはランス生まれなんですね。
駅から15分ほど、17-8世紀の古い街並みを楽しみながら歩いていくとランス・ノートルダム大聖堂の鐘楼が見えてきました。見るからに装飾の細かいゴシック建築です。正面に回ってみると、聖人などの彫刻で扉付近が埋め尽くされていてものすごい迫力があります。
しばらく大聖堂正面を観察した後、朝一番に入場予約をした大聖堂に隣接するトー宮殿へ先に入りました。今はコロナウィルス対策でどこも事前予約が必須で、旅行をするにもあまりスケジュールの融通がききません。
トー宮殿は平時は大司教の住まいで、新国王が戴冠するためにやってくるときには御座所として使用され、様々な祝典も行われました。現在は戴冠にまつわる宝物や大聖堂の彫刻のオリジナルを保管する博物館になっています。入って早々、大きな不発弾が置かれていて何だろうなと思っていたら、ランスは第一次世界大戦中にドイツ軍との戦闘の舞台となって、かなりの被害を受けたんですね。砲撃後の町の写真や、鉛が溶けだして固まってしまった大聖堂のガーゴイル(雨水を排出する役割を持つ彫刻)などが多数ありました。

シャルルマーニュの護符や戴冠式で使用する聖杯

階を上がると大きな饗宴の間があります。立派な暖炉と高い天井を持つこの部屋で戴冠に際する饗宴が催されていたんですね。
順路を進み宝物を保管している部屋に行くと、シャルルマーニュの護符や戴冠式で使用する聖杯などがあります。シャルルマーニュの護符は注意しないと見逃してしまうほど小さなものですが、とても価値のある品です。
オリジナルの彫刻が陳列されている部屋を通ると順路の最後に、大聖堂の中央扉の上を飾る彫刻のオリジナルがあります。聖母マリアが冠を授けられている様子を描いていますが、冠が風化していてまるで拳骨を食らっているようだと母が言っていました(笑)。向かって一番右の天使がにんまり笑っているのでこれが有名な「微笑みの天使」かなと思ったのですが、笑っている天使の彫刻はいくつもあるようで、一番有名なのは正面扉付近にあるものらしいです。

西側正面の室内側の聖人たちとバラ窓

宝物やオリジナルの彫刻を見終えたところでいよいよ大聖堂へ。まず入って驚いたのは西側正面の室内側にも聖人たちの彫刻があること。様々なゴシック聖堂を見てきましたが、内側にまでこういった彫刻が施されている聖堂は初めて見ました。上下2つのバラ窓、その中間に位置する横長のステンドグラスの美しさは写真では到底伝わりません。そして何といっても天井が高い!中心部の高さは38mあり、フランスで最も高いとのこと。
中央を祭壇に向かって進んでいくと、「ここで聖レミがフランク王クロヴィスを洗礼した」と書かれた石板が床にはめ込まれています。古い聖堂の位置から、おそらくこの付近でフランク王国の初代国王クロヴィスが洗礼を受けたと考えられています。フランク王国は現在のフランスの起源となった国で、初代のクロヴィスがレミギウス司教(聖レミ)から洗礼を受けたことに由来し、その後ランスの司教から聖別されて戴冠しなければフランスの正式な国王として認められないという慣習が定着しました。そのためルイ14世は勿論の事、ほとんどの歴代国王がこの大聖堂で戴冠しています。戴冠式が行われる聖堂として多くの参列者を収容する必要があることから、次第に増築され現在のような大規模な聖堂となりました。
祭壇に向かって左方にある北側のバラ窓は天地創造を表していて、下には立派なオルガンが備え付けられています。通常祭壇と向かい合うように西側にある事が多いオルガンですが、この聖堂は西側の大部分がステンドグラスであるため設置する場所がなかったのでしょう。
奥に向かって進むと白いドレスと甲冑を着たジャンヌ・ダルクの像があります。百年戦争中のフランス国王シャルル7世にここで戴冠するよう勧めたジャンヌですが、この像はその後の悲しい末路を予感させるようです。
祭壇裏の北側のステンドグラスはバラ窓と違って近代的なデザインのものになっています。これは1974年にシャガールが寄進したもので、非常に評価が高く有名なのですが私としてはやはりゴシック建築に合う古いステンドグラスの方が好みですね。
南側へ移動していくと、「死と復活の祭壇」とその手前にローマ時代のモザイク床があります。祭壇の彫刻も素晴らしいのですが、古代ローマファンとしては先にモザイク床の方へ目が行ってしまいました。ローマ時代、ここには浴場があったようです。
南側のバラ窓は復活を表しています。大きな円の中に小さい円を組み合わせたデザインで、下にある3つの中くらいの円とよく調和していますね。
南側の身廊にはここで戴冠した25人の国王の名前が刻まれた石板があります。ほぼフランス国王一覧といった感じです。
最後に改めて大聖堂を眺め、戴冠式の際の華やかな様子に思いを馳せて見学を終えました。本当に来てよかったです。

母の目的であるヴーヴ・クリコのワインセラーに向かう途中に聖レミ旧大修道院(聖レミ聖堂)がありうまく立ち寄ることができました。聖レミの遺体が安置されている聖堂で、ロマネスクとゴシックの様式が混在しています。西側正面は先ほどの大聖堂で、彫刻で覆いつくすような壁面を見てしまったのでやや簡素に見えてしまいますが、ロマネスク様式の建物をゴシック様式で装飾していることを考えると標準的といったところでしょう。
聖堂内へは南側から入ります。内部に入って驚いたのが、外観のやや質素な印象と打って変わって内部は壮大で身廊の幅が広くとられており、特に驚いたのは側廊の2階部分に当たる階上廊(トリビューン)が1階部分と大差ないほどかなり大きく設計されているということです。また西側のステンドグラスもノートルダムに負けないほど美しいです。
南側の身廊にはこの聖堂で戴冠した9-10世紀の3人の国王の名前が記された石板がありました。何故3人だけこの聖堂で戴冠したのか気になりましたが調べても良く分かりませんでした。ただ同じようにランスの司教から聖別され戴冠しているので意味はさほど変わらないのだと思います。
祭壇の奥に聖レミの遺体が安置されていますが、この構造物は19世紀に再建されたものだそう。唐草模様のようなデザインの金属製の扉が備えられていて内部が良く観察できませんでしたが、金色の小さな祭壇があります。これを取り巻く仕切りは非常に豪華なバロック様式のもので、大理石の円柱の間に歴代の司教(だと思います)などの像が並んでいます。
北側に聖レミ博物館が併設されていますが、ちょうど昼休みだったので後で入ることにし、いよいよ母お待ちかねのヴーヴ・クリコのシャンパンセラーへ。

ヴーヴ・クリコのシャンパンセラー

今回は母のために英語の解説による一人あたり55€のツアー「クリコのサインClicquot
signature」を予約しました。ヴーヴ・クリコの歴史を知りながら迷路のようなシャンパンセラーを進んでいき、終盤で2つのシャンパンのブラインドテイスティングがあるコースです。
受付でEチケットを見せて待合室で待つことしばし、ガイドの男性に導かれ道路を挟んで反対側の建物から階段を下りセラー見学が始まりました。ただこの人、英語がフランス語訛りかあるいはどこかの言語訛りなのか、何を言っているのかとにかく全然分からない(笑)。それでも渡されたタブレットや途中にある画面での動画による解説や、ボトルを保管する棚、ボトルを回転させる機械などを見ることで楽しむことができました。セラー内は寒いかと思いきや、長袖程度で十分の温度でした。
ブラインドテイスティングでは最初に注がれたシャンパンの方が馴染みのある味で、2つ目の方は少し後味が残る感じで私は1つ目の方が好きだったのですが、種明かしが行われると2つ目の方が熟成されたシャンパンでした。値段もかなり違うと思います。まあ私にはもったいないということでしょうか。ちなみにテイスティングといっても結構大きなワイングラスに半分ほど注いでくれるのが2杯なので、私は結構酔いました(笑)。
最後に1900年代から年号が書かれた階段を上って見学終了。時々飛んでいる年があるのが謎でした。ブティックでは母がロゼの辛口シャンパンをお買い上げ。日本で買うよりもずっと安いです。

ほろ酔いで歩きながら元来た道を戻り、聖レミ博物館へ。ベネディクト会の修道院だった18世紀の建物を使用していて、均整のとれたバロック建築になっています。展示室には先史時代からの日常品、武器、彫像といったあらゆるものが所蔵されていて、私の好きなローマ時代の品もたくさんありました。

パリから気軽に日帰りできる町ランス、皆様も是非行ってみて下さいね。
次回はヴェルサイユ宮殿シリーズ、ガイドツアーでしか行けない国王の私的アパルトマン群をご紹介します。

スイス鉄道乗りまくりツアー②

27 8月 2020
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ブリエンツ・ロートホルンの山頂からブリエンツ湖を望む、遥か下に列車が見える

先週イタリアから帰ってきたら、フランスはすっかり涼しくなっていました。スイスに行く前はとても暑かったのですがもう秋の到来でしょうか。
さて、今回はスイス旅行の後編です。
インターラーケンを後にし、今回一番の目的であったブリエンツ・ロートホルン鉄道へ。標高2000m級のブリエンツ・ロートホルンまで行く登山鉄道で、電化が早くから進行したスイスにおいて唯一現在でも定期列車として蒸気機関車を運行している鉄道です。麓側に勾配に対応すべく前傾して造られている小さな蒸気機関車が付き、前に客車が基本2両連結されます。

前傾した形状の愛らしい蒸気機関車

小さいながらユングフラウ鉄道と同じ250パーミルの急勾配を登る蒸気機関車は何とも健気で可愛らしく、乗客も大半はやはり蒸気機関車を求めてやってくるようですね。旧来からの石炭炊き機関車もありますが、現在の主力は1990年代に製造されたオイル炊きの機関車で、これは1人で運転できるそう。できればやはり石炭炊きの機関車が良い気持ちもありますが、いつ運転するか分からないので最初の蒸機列車に乗りました。というのはダイヤ上の始発に乗ると少し安い運賃が適用されるのでそれを狙って行ってみたのですが、ディーゼルだったので次の列車を待つことにしたのです。最初の蒸機列車を待つ間は機関車単体での入れ替えや、客車の連結シーンを見られるのでおすすめですよ。歯車を持つ走行装置の機構の美しさに見とれます。出発するとしばらくはトンネルがあったりしますが、やがて広い草原に出てS字を描きながら頂上に向かって登って行きます。ここでは前方、あるいは後方に続行している列車や反対方面の列車を遠目に見つつ、眼下にブリエンツ湖が見えてきます。頂上駅には姉妹鉄道である日本の大井川鐵道との友好を示すプレートや古い機関車のボイラーの展示があり、少し歩くとレストランや土産売り場、展望台があります。展望台には機械の熱を求めているのか何故か大量の羽アリがいてあまり長居できず…。ちなみに山の裏側にはロープーウェイがあり、反対側の麓に下りることもできます。

ヨーロッパ最古の木造橋

その後中世の街並みが残る小さな都市ルツェルンに移動。ホテルに荷物を置いて日没まで観光を少ししました。
1993年に火災に見舞われましたが、14世紀に架けられたヨーロッパ最古の木造橋であるカペル橋の天井にはルツェルンの歴史が描かれている絵の連作があります。しかしドイツ語でしか説明がないので雰囲気だけしか分からず、おまけに逆順の旧市街側から渡ってしまいました。絵を見るなら駅がある方から渡りましょう。
聖堂巡りは高い天井と豪華な祭壇が美しいホーフ教会、白い内装にピンクや金色の華やかなバロック装飾が施されたイエズス会教会、小さいながら中世のフレスコ画と精巧な木彫があるフランシスコ会教会に行きました。ルツェルンはスイスの中でもカトリックを維持し、反宗教改革の拠点になっていた街です。
ヴェルサイユに関係があるものとして見ておくべきものは瀕死のライオン像です。氷河に削り取られた砂岩の岩壁に1821年に彫られた彫刻で、フランス革命時のテュイルリー宮殿襲撃とその後に非業の死を遂げたスイス衛兵たちの忠義を讃えています。負けると分かっていながら最後まで戦ったスイス衛兵たちを矢が刺さったライオンに見立て、フランス王家の紋章が入った盾をなおも守ろうとしている姿は寓意ながら胸を打ちます。スイス衛兵たちの悲劇の詳細をネットで調べつつ合掌。
1386年建造で見張り台と共に当時のまま残るムゼック市壁は少し丘の上にあります。頑張って時計塔に登ってみたらちょうど正時になり鐘が鳴りました。塔の上からは美しい街並みとルツェルン湖、遠くに次の日登るピラトゥス山などが一望できます。

まるでケーブルカーのようなピラトゥス鉄道

翌日はまた鉄活動。まずは昨日遠くに見たピラトゥス山に上るためのピラトゥス鉄道に乗車します。というか鉄道が目的なんですけどね。
ブリエンツ方向へ少し戻ったアルプナハシュタット駅の山側にある駅から出る、まるでケーブルカーのような平行四辺形型の車両を持つ路線ですが、これはケーブルカーではなく線路の間に歯車を持つラック式鉄道の一種で、最勾配は驚異の48パーセント!!!これだけの急勾配ですから歯車が絶対に外れないよう、地面に対して平行に、歯車レールを双方から挟み込むように歯車が取り付けられるロッヒャー式という世界でも唯一の機構が採用されています。この機構のために通常の鉄道のような分岐が作れず、車両ごと水平に移動したり分岐部分がひっくり返る特殊な分岐が使われているのも面白いです。
経験したことのない勾配の鉄道ですから、発車してすぐに麓の街並みが小さく見えてしまいます。なお1両が小さいため基本的に複数の列車が続行しますので、前方の列車を追いかけたり後方の列車に追われたりしながら進みます。アルプナッハー湖、ルツェルン湖を眼下に見つつ、終盤は荒々しい岩肌の崖が周辺にそびえたちます。崖にしがみつくように敷設された線路を行き、終点に到着。
イエス・キリストの死刑を決定したローマの総督ポンテオ・ピラトの霊がたどり着いたという伝説があるピラトゥス山。山頂駅からいくつかの峰に登れるので、近くにある難易度の低そうなところを3つ挑戦してみました。眼下に広がるルツェルンの街、2つの湖、平野、山脈と絶景が広がります。途中の鉄道が目的でしたが登った甲斐がありました。
ルツェルンに戻り、今度はスイス交通博物館へ。旧市街から少し離れたところにあるので、湖畔に沿って散歩しながら行きました。ここはすごい!鉄道の展示はもちろんのこと、「交通博物館」の名の下にロープーウェイ、自動車、船舶、航空宇宙、果てはソリやボブスレーまであり、全てが網羅されている博物館は一日いても飽きないと思います。鉄道は国鉄の車両はもちろん、ユングフラウやブリエンツの機関車、ピラトゥスで開業時に使用されていた蒸気動車の展示もあり、また近年完成したゴッタルド・ベーストンネルに関する展示が広くとられていました。あと特筆すべきはその多くが体験型であること。多くの車両に入ることができるのはもちろん、シュミレーター、手で動かして構造を理解するための模型、中庭では工事現場を模したエリアで小さなショベルカーや石を運搬するベルトコンベアで遊ぶことができます。子供向けですが私も少しやってみました(笑)。こうやって子供たちに遊ばせながら交通に関する知識を学ばせ、将来の人材育成につなげようという姿勢が感じられました。

フルカ山岳蒸気鉄道の蒸気機関車

最終日はフルカ峠を走るフルカ山岳蒸気鉄道に乗車するため、ルツェルンから南下。昨日博物館の展示で見た鉄道の難所ゴッタルド峠を途中まで登り、ゲシェネン駅でゴッタルド鉄道トンネル(新しいゴッタルドベーストンネルではない)の坑口を見つつ、赤と白の鮮やかな塗装の小さな車両を持つマッターホルン・ゴッタルド鉄道に乗り換え、レアルプ駅を目指します。途中からは有名な氷河特急のルートでした。レアルプ駅に着き、進行方向に歩いていくと右手にフルカ山岳蒸気鉄道の車庫と駅舎が見えてきます。
フルカ山岳蒸気鉄道は、1982年に開通した現行線のフルカベーストンネルに置き換えられ一度廃止されたフルカ峠を越える旧線のルートを有志により復活して夏期のみ運行している保存鉄道です。廃止から10年ほど経った1992年から徐々に区間を伸ばし、オーバーヴァルトまでの全区間が開通したのは2010年。その名の通り基本的には蒸気機関車による牽引で、かつての難所に果敢に挑んでいきます。
座席はインターネットで予約していきましたが、客車に行って見ると窓に予約者リストが貼り出されていて、座席には名前が書かれたシールが貼ってありました。しかもローヌ氷河が見られる右側の座席!早く予約しておいて本当に良かった。
現行線ではオーバーヴァルトまで20分程度で着いてしまいますが、このフルカ山岳蒸気鉄道で行くと途中休憩を含め2時間10分かかります。それだけ現行線では失われた雄大な景色や蒸気機関車の奮闘を楽しめるということです!
ちなみに使われている客車は西部劇に出てくるような乗降口が屋外に設けられているタイプで、車両間を行き来する際は非常にスリリングです(笑)。指定席なので車両を移動する必要はないのですが、なかなかできない経験なので通ってみました。フルカ駅で飲食の販売があり、おじさんが美味しそうなソーセージを焼いていたので迷わず購入。こうやって運賃収入だけでなく付帯事業で収入を稼いでいるのですね。ローヌ氷河はレアルプから乗車すると終盤に見えてくるのですが、如何せん氷が殆どなく浸食された岩肌が見えるばかりでした…。全線乗車して大満足!今後も是非活動を継続していってほしいです。
その後はローザンヌまで戻り、時間があったので少しだけジュネーヴを観光してみることにしました。行ったのはジャン=ジャック・ルソーの生家。現在工事中ですが外観を見ることができました。後は宗教改革記念碑、オーストリア皇妃エリザベトが暗殺されたことを記念する銅像を見て終了。国連本部も興味がありましたが少し離れていて時間が足りませんでした。
今回行ったスイスの街はどこも清潔な印象があったのですが、ジュネーヴは少し汚い印象がありました。フランスが近いからでしょうか(笑)。

これで長かったスイス旅行は全て終了です。
その後のイタリア旅行についても記事にしようと思っていたのですが、各都市の建築物や美術品があまりに凄すぎて書いても駄文になるか超大作になりそうなので、ここで行程だけ紹介しておきますね。
最初はパリから飛行機でヴェネツィアへ。ヴェネツィア楽派の本拠地として有名なサン・マルコ大聖堂やモンテヴェルディの墓があるサンタ・マリア・グロリオーザ・デーイ・フラーリ教会などに行きました。
一泊してボローニャ、フィレンツェを通りローマへ。行程上どうしても月曜日にせざるを得ず、残念ながら多くの博物館や美術館が休館でした。ボローニャは協奏曲発展を推し進めたボローニャ楽派の拠点であるサン・ペトローニオ大聖堂やアッカデミア・フィラルモニカ、ボローニャ大学の旧館であるアルキジンナジオなどに行き、昼食にいわゆるボロネーゼパスタを食べました。フィレンツェはあの有名なサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に行きましたが、洗礼堂や鐘楼は事前予約が必要で既に完売していて入れず…。
ローマは何とかその前の行程を圧縮して丸2日取りました。何といっても古代ローマとローマ・カトリックの本拠地。1日目はヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂とシスティーナ礼拝堂を含むヴァチカン美術館、ついでにトレビの泉やスペイン階段も見てきました。ヴァチカンはとにかく全てが他の教会を圧倒していますね。トレビの泉は現在近くに寄れないように規制されていて、無理やりコインを投げ入れようとしましたが入りませんでした…(笑)。2日目は古代ローマ遺跡巡り。コロッセオ、皇帝たちのフォルム、数々の神殿、浴場、競技場、少し歩けばすぐローマ遺跡に巡り合えます。大部分が破壊されていたりキリスト教化されていたりしますが、断片から往時の様子を想像して古代ローマの威光を感じ取りました。またパンテオンにはコレッリの墓があります。凄かった、ローマ。
次の日はナポリ近郊のポンペイを訪れました。紀元79年のヴェスヴィオ火山の噴火による火砕流で一瞬にして消滅都市となってしまい、その後18世紀中頃の発掘まで蛮族による破壊や風雨による劣化もなく保存されていた貴重な遺跡都市です。都市丸ごと1つ遺跡なので敷地は広大で、疲労と暑さと戦いながら主な見所を見学して回りました。噴火の前に地震もあったのでそれぞれの建物は完全というわけではありませんが、とにかく都市の区画は全く手つかず。建物内部の壁画は美術館に展示するため取り去られたものも多いですが、今もそのまま残っているものもあり、そろそろ約2000年経とうというのにとにかく色が鮮やか。それでも発掘から250年ほど経ち、多くの場所で劣化が進行しているそうです。亡くなった市民へ黙祷を捧げてからナポリに引き返し、卵城、王宮、サン・カルロ劇場、ヌオーヴォ城などを外観のみ見学。劇場は目下工事中でした。翌朝帰る前にナポリ大聖堂と考古学博物館にあるポンペイから運ばれた壁画コレクションを見て、全ての旅程は終了。博物館にあるといっても温度や湿度管理は全く行われておらず、ケースの中にあるわけでもなく手の届く位置にあります。これでは元あった場所にあるのと比べてそんなに劣化具合は変わらないのではないかと思いました。これからは適切な保存をお願いしたいですね。

次回は今週行われるオーケストラとヴァイオリンデュオの演奏会の模様をお伝えします。久しぶりに音楽ネタですね。

スイス鉄道乗りまくりツアー①

19 8月 2020
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ユングフラウ鉄道の起点、クライネ・シャイデック駅

ただいまイタリアにて偉大な芸術のフォアグラ状態になっている佐藤でございます。
引き続き旅行記で恐縮ですが、今回は先週のスイスでの活動報告を簡単にさせていただきます。題名の通り、今回はかなり鉄道要素高めです。

まずはパリ・リヨン駅からTGVでスイスのローザンヌへ。乗り換え時間にスイスフランを用意し、ヴヴェイという駅まで再び国鉄に乗ります。
途中、右側にはレマン湖、左側には葡萄畑の車窓。ローザンヌ周辺はワインの産地なんですね。
ヴヴェイからモントルー・ヴヴェイ・リヴィエラ交通(MVR)という線路幅1mの小さな電車に乗り換え、最初の目的であるブロネー=シャンビー博物館鉄道へ。

様々な車両を収蔵する博物館

1966年に廃線になった全長3㎞ほどの区間を利用して、ボランティアの手により夏期の休日のみ運行される保存鉄道です。博物館入場と1日乗車のセット券をボランティア駅員のおじさんから購入。ブロネー駅から最初に乗ったのはオープン客車を1両連結した赤い電車。3等まであったスイスの座席設定ですが、この鉄道はどこに座ってもよさそうなので少し座席幅が広く快適な2等座席に座ってみました。車体を軋ませながらゆっくりと上り坂を登って行き、眼下にレマン湖が見えたところで左手に博物館兼車庫が見えてきます。終点はここですが、まずはその先のシャンビー駅に行って折り返すダイヤになっています。博物館兼車庫に着くと、1mゲージの蒸気、電気、ディーゼルなど多様な古い車両が前後の車庫にひしめき合うように収められていて、もう何時間でもいられそうです。保存状態が非常に良いのは勿論のこと、これら大半が現在でも営業できるそう。フランスの鉄道博物館と違って、基本的にどの車両も中に入れます。半分程度見たところで蒸気機関車の運転時刻になりました。小さいながら健気にも走り装置が2組あるドイツの機関車で往復乗車。機関士と機関助士もおそらくボランティアで、楽しそうに運転していましたね。博物館に戻った後は残りの車両を見て、駅舎併設のカフェで休憩した後ブロネーへ戻りました。途中で茶色い電気機関車や水色の電車が動いていたのでそれに乗れるのかと思いましたが、乗れたのは結局来た時と同じ赤い電車でした。
ローザンヌに戻り、軽く街を観光。ローザンヌ大聖堂は17:30で閉まってしまい入れなかったので外観だけ。丘の上にあるので、大聖堂の手前からローザンヌの旧市街を見ることができました。あとはレマン湖畔を歩きつつオリンピック博物館も外観だけ見ようと行きました。建物に向かって上がっていく階段には大会開催年と都市が刻まれていて、最後は2018年の平昌。2020と東京は果たしてこの次に刻まれるのでしょうか…。

大聖堂の塔から見たベルン旧市街

2日目、この日は鉄道要素なしで首都ベルンを観光。至る所に水飲み場があり、長いアーケードが続く古い街並みが残る街です。連邦院の建物を横目に見つつ、まずはベルン大聖堂へ。天井のリブが格子状になっていて、それに沿って模様が描かれています。個人的に興味深かったのは信徒用の長椅子。背もたれと座面が共通設計になっていて、前後に転換できるんです。教会版転換クロスシートでしょうか?(鉄分なしと言ったのに…。)フランスでは見たことない長椅子ですね。これならオルガンを聴く際などに身体を捻じって振り返る必要がありません。塔にも登ってみました。ここからは赤茶色の小さな六角形の瓦葺きで統一されたベルンの旧市街が一望できます。あの大量の瓦を造るのって業者の入札とかあるんだろうか、なんて考えてしまいました。
アーレ川を渡った先にクマ公園があるのですが、残念ながらクマの姿は見えず。街を創設したツェーリンゲン大公が猟で仕留めた最初の動物がクマだったので、それが街の名前や旗、シンボルになっています。ところでアーレ川では結構泳いでいる人がいたのですが、見たところとても流れが速く危険そう…。橋脚に激突したりしないのでしょうか?川は街を半周するように流れているので、うまくすれば流れるプールのようにして楽しめるのかもしれません。
旧市街に戻ってアインシュタインの家に行きました。彼が3年間住んでいた家で、調度品や資料が展示されています。受付の人が何故か日本人の方でした。2階には彼の経歴や功績の説明があり、音楽活動の説明もありました。
そろそろ正時になる頃、近くにある有名な時計塔へ。アインシュタインはこの時計の針から特殊相対性理論の着想を得たようですが、凡人の私には皆目分かりません。正時になるとからくり人形が作動しますが、うーん、期待が大きすぎたのかちょっとしょぼかったかも?自動オルガンくらい鳴るのかと思いました。周りにいた人たちもこれで終わりかと、しばらく待っていましたがやがて離散しました。古くて貴重なので良いんですけどね。
その後は宿泊地インターラーケンへ移動、この日は終了です。

スフィンクス展望台から見下ろすアレッチ氷河

西のトゥーン湖と東のブリエンツ湖に挟まれた名前の通りの小さな町、インターラーケン。周囲を山々と湖で囲まれ、登山やスキー、パラグライダーやカヌーといった自然アドベンチャーを求めやってくる客で賑わっています。私もその一人、目的はそう、ずばりユングフラウ鉄道です。
ユングフラウ鉄道というのは正確には一部区間の鉄道なのですが、その手前の2つの鉄道もユングフラウ鉄道の傘下にあり、これらをまとめてユングフラウ鉄道と呼ぶことが多いようです。山頂のユングフラウヨッホ駅まで厳しい自然の中を走る登山鉄道だけあって運賃が高く、最短で往復しても117.4フランかかります。日本円だと大体13000円くらい。その他の別の支線やロープーウェイに乗るにはさらに運賃が必要で、公式サイトにはいろいろな乗車パスの設定があるのですが、これがたくさんありすぎてとにかく分かりづらい…。結局その都度切符を購入しましたが、時期によってはこれより少し安くなるプランがあるのかも?しれません。
インターラーケン・オスト駅からまずはベルナーオーバーラント鉄道の区間。近年車両が新しくなったようで近代的な広く快適な車両になっています。途中で左手に古めかしい機関車や客車を持つシーニゲ・プラッテ鉄道が見えてきますが、これは後で乗ります。しばらくすると小川に沿って峡谷の中へ入っていき、徐々に高度を上げていきます。2番手はヴェンゲルンアルプ鉄道。線路の間に歯車レールを持ち、ここで一気に高度を稼ぎます。標高3000m級の山々と氷河が間近に迫ってきました。ラストはユングフラウ鉄道。最初の駅を過ぎるとずっとトンネルになってしまい車窓はあまり楽しめないのですが、途中のアイスメーア駅では少し停車するので、大半の人は一度下りて展望台から景色を眺めます。最急勾配は250パーミル、日本にあるケーブルカーを除いた鉄道の最急勾配は大井川鐵道井川線の90パーミルですから、これはその約2.8倍あるわけです(ところがこの旅行では後にとてつもない勾配の鉄道に乗ることになります…次回)。長い勾配を上った先の終点はユングフラウヨッホ駅。標高3454mにある、ヨーロッパで最も高いところにある鉄道駅です。駅は山中にあり、黒部峡谷鉄道を思い起こさせました。少し歩いたところにスフィンクスと名付けられた標高3571mの展望台があり、そこから目の前に延々と続くアレッチ氷河やユングフラウを始めとした山々、遥か下遠くに先ほど乗り換えた駅を見ることができます。この日の天気予報は午前中何とか少しだけ天気が良く、その後一時雷雨とあまり良くないものでしたが、行って見れば何のその、快晴でした。急いで午前中の内に来た甲斐がありました。服装は長袖とウィンドブレーカーというやや軽装で行ってしまいましたが、風が吹かなければ日が当たってあまり寒くありません。絶景が見られるかどうかは天気によって大きく左右されるようで、公式サイトではライヴ映像も配信されていて最新の天気を確認することができます。展望台の他は尾根に沿って歩く道が2つ、あとは氷河の中にある氷の彫刻の展示コーナーや、通路に鉄道の建設工事の展示などがありました。氷の彫刻コーナーはさすがに寒かったですね。
ところでユングフラウ鉄道には短い右ルートと長い左ルートがあり、行きは所要時間が短い右ルートで行ったので帰りは左ルートを試してみることに。ですが距離が長いだけあって勾配がきつくなく途中から普通の鉄道のようになってしまうので、特段用事がなければ短い右ルートの往復で良さそうです。下りてくる途中でユングフラウの山頂付近はだんだん雲に覆われ始めました。早く行って本当に良かったー。

機関車と客車が可愛らしいシーニゲ・プラッテ鉄道

ヴィルダースヴィル駅まで帰ってきたところで、今度は先ほど見たシーニゲ・プラッテ鉄道に乗車。登山鉄道で降りてきたばかりなのにまた別の山に登山鉄道で登るという…。こちらの方が歴史が古く、車両も古いので鉄道ファンとしては楽しいです。麓側に小さな電気機関車が一両、その前に基本2両の赤とベージュの客車が繋がれ、先ほどのユングフラウ鉄道と同じ250パーミルを懸命に登って行きます。トンネルはそう多くないので、山間を抜ける少しのスリルと景色を楽しめるのが魅力ですね。終点のシーニゲ・プラッテ駅には高山植物園があり、麓まで下りる束の間、目を楽しませてくれます。エーデルワイスもあるらしいのですが残念ながら見つけられませんでした…。お昼にはアルペンホルンの演奏もあるようです。天気の都合がなければこちらにまず来ればよかったですね。

1回で終わらせるつもりでしたが、意外に長くなってしまったので2回に分割したいと思います。次回はブリエンツ、ルツェルン、フルカ峠に行きます。

フランス南東部、モナコ旅行記

12 8月 2020
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大公宮殿からモナコ市内を見下ろす

先週は「サン=ジョルジュ・コンソート」のノルマンディー地方ツアーが無事終わりました。1日目はバイユー近郊のジュエイ=モンダイエにあるサン=マルタン修道院教会で、2日目はグランヴィルのノートルダム教会で演奏しました。サン=マルタン修道院教会では18世紀の大オルガンを使って演奏を行い、奏者は階上のオルガンの周りに身を寄せ合って演奏しましたが、オルガンの構造物に遮られ視覚的にコンタクトが取れなかったり、距離が遠くずれが生じたりしてなかなか大変でした。でも教会の大オルガンでアンサンブルをしたことはなかったので貴重な経験でしたね。
今週からパリ市内の一部で屋外においてもマスク着用が義務化されました。先週から暑くなったのでなかなかきつい時もありますが、観光客も対象ですのでパリに来られる際は基本的にどこでもマスクを着けておくのが無難でしょう。
少し前までマスク=重病者のイメージで着けるのが憚られたのに、こんなにも変わってしまうのですね。果たして効果はいかに。
日本では相変わらずマスコミが「感染者」(=患者ではない)の増加を好んで報じて国民の不安を煽り立てているようですが、良識ある皆様はどうか誤った情報に流されず、正しくウィルスを恐れて生活していけるよう願っています。

さて今回は少し前になりますが、2週間前に行ったフランス南東部とモナコの旅行について簡単に活動報告したいと思います。それぞれの歴史や背景などを書き出すととても長くなるので、今回はあくまで記録です。
こちらに来てからフランス国内のいろいろな所を旅行しましたが、南東部の地中海に面した辺りは手付かずでした。特に歴史的建造物がたくさんあるというわけでもないのですが、やはりあの辺りの雰囲気を知っておきたいなと思いまして。

カンプラが学んだサン=ソヴール大聖堂

パリからTGVに乗って、まずはエクス=アン=プロヴァンスを訪れました。何故かというと、私の敬愛する作曲家アンドレ=カンプラの生まれ故郷だからです!大概の日本人はポール・セザンヌ目当てで行くと思いますが…。早速、まずはカンプラが聖歌隊で歌い音楽を学んだサン=ソヴール大聖堂に行きました。古い部分は5世紀末のものが残る非常に古い教会です。今日あるオルガンは19世紀のものだそうですが、カンプラがここで勉強したのだなとしばし思いを巡らしました。回廊はガイドツアーのみの開放で、それぞれの柱や柱頭のデザインなど事細かに解説がありました。
次はカンプラが生まれた家探し!彼の生家はピュイ・ヌフ通りにあったらしく、現在でもこの通りは存在するのでプレートか説明書きがあることを期待して行ってみましたが、残念ながらそれらしきものはありませんでした。17世紀の地図を見てみると現在と道の形が一緒なのでおそらくこの両側のどこかの家だと思うのですが…。隣の通りが「カンプラ通り」だったり、近くの幼稚園と中学校がカンプラの名を冠しているので割と地元では愛されている存在なのだと思います。生家が詳細に分かるなら是非掲示してほしいですね。
出発までまだ時間があったのでタピスリー美術館と歴史博物館にも行きました。タピスリーって宮殿には付き物で何だか見慣れてしまいましたが、微妙な色彩を織物で表現するってすごいですよね。
この地区は17-8世紀の建物がとても多く残っていて、カンプラがいた時代を容易に想像させてくれました。
しかしこの日も快晴でとても暑かったです。こういう空ってカンプラのような南仏の音楽を連想させますよね。

マルセイユの旧港と城塞

続いてマルセイユ。出ました地中海!旧港には停泊中の小舟やヨットのマストがずらり、その手前では漁師さんたちが釣った魚を売っています。マグロもありましたね。
2日目の朝、まずは旧港から出るフェリーで少し離れた島にある「イフ城」に行きました。城塞なので特に建築として面白いところはあまりないのですが、アレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』で主人公の牢獄として舞台になったことで有名です。私はこの小説を読んだことはないのですが…。独立した島の堅固な要塞なだけあって、牢獄にはうってつけといった感じです。周囲に何も遮るものがないので日向はとても暑かったです。
本土に帰って、旧慈善院にある博物館群を観に行きました。夏期は無料とのこと!マルセイユは古くから地中海貿易の拠点だった関係で、この博物館はエジプト、オリエントの古代文明を始めとしたコレクションを多数所有していて見ごたえがありました。
続いてロンシャン宮にあるマルセイユ美術館。ここも無料でした。私が個人的に好きなフィリップ・ド・シャンパーニュもありましたが、特にプロヴァンス出身の画家たちの作品が多く所蔵されています。1720年の大規模なペスト流行の様子を描いた作品もいくつかありました。
お決まりの教会巡りですが、この町の大きな聖堂、ノートルダム・ド・ラ・ギャルドやラ・マジョールはいずれも再建された19世紀の建築です。しかしサン=ヴィクトール修道院は古い建物。見た目は城塞のようで無骨ですが、古い部分は5世紀のものが残る歴史ある建物です。特に地下聖堂は3世紀の墓地の跡で非常に古く圧巻でした!手持ちの現金が足りず入場を諦めかけましたが、近くのATMで調達して入った甲斐がありました。

念願のFIAT500でチュリニ峠を走破

さて翌日はニースへ向けて電車で移動。国際映画祭で有名なカンヌも通りました。今回ニースに何をしに来たかというと、海で泳ぐため…ではなく、レンタカーを借りてモナコ・グランプリやラリー・モンテカルロのコースを実際に走りに来たのです。
ニース空港に隣接するレンタカーセンターで早速手続き。帰路の飛行機とセットで予約し少し安い値段になりました。車種はFIAT500か同等クラスという予約でしたが、できれば一度FIAT500に乗ってみたかったんです。渡された鍵はFIAT!念願叶いました。エンジンをかけ中央のモニターを操作しナビを設定しようとすると…あれ、ナビがない。そんなことあります?でも何度探してもナビらしきメニューはなく、仕方ないのでGoogleのナビを設定した携帯をダッシュボードに置いて何とか出発…。振動で頻繁に倒れてしまい手を出すのが危なかったので、ハンドルの裏に置く方法を確立しました。
海沿いを走り、せっかくなので少し海岸に降りてみようとモナコの少し手前にあるカップ=ダイユに車を停めて少し散策。入り組んだ入江が続いていて、あちらこちらで海水浴を楽しんでいる人たちがいました。暑くて滝のように汗をかいたので、準備して少し海に入れば良かったと後になって思いました。

それから少し車を走らせモナコ公国へ入りました。特に国境の案内もないまま入ってしまいましたが、周囲の国旗や警察官の服装の違いで国の違いを感じられました。まずは大公宮殿へ御挨拶に…と思ったら、現在一般公開は中止しているとのこと。外側だけ拝見させていただきました。
行こうかどうか迷っていましたが、宮殿に入れなかったのでモナコ大公のカーコレクション博物館へ。歴代大公のコレクションやモナコ・グランプリ、ラリー・モンテカルロで優勝した車が多数。欧米の旧車好きにはたまらない博物館だと思います。
車を見た後はいよいよモナコグランプリのコースへ。事前にナビに経由地を設定しておいて走ることができました。ただしトンネル区間以外はほぼ市街地なので混んでいてレース気分はあまり味わえず。道路脇の縁石が赤と白の縞模様になっているところがいくつか、タイヤ痕もありましたね。楽しくて3周してしまいました。

フランスに戻り、続いてラリーのコースへ。まずはペイユの近くからサン=タニェスを通って戻ってくるコース。車一台がやっと通れるほどの狭い道ですが一方通行ではありません。むやみにコーナーへ突っ込んで対向車が来たら正面衝突は免れないでしょう。十分注意して「かもしれない運転」をしましたがそれでも出合い頭は少しヒヤッとしますね。走りに来る方はくれぐれも安全に楽しみましょう。とても長いコースで、一周で大満足しました。もう一度中間地点のサン=タニェスまで行き、町に降りて念のため給油。山間部にはガソリンスタンドが全くないのでガス欠になったら一巻の終わりです。
続いて大本命のチュリニ峠。そこに至るまでも延々峠道で、これがチュリニ峠かーと思っていたらまだだったりしました。先ほどのコースに比べればすれ違いできる広さはありますが、何せ断崖絶壁なので転落したらまず助からないでしょう。それなのに鉄のガードレールなどなく、あるのは木(笑)のガードレールらしきものや背の低い縁石だけ。ここを全開走行するラリードライバーってすごいですね…。チュリニ峠もとても長いコースですが、掲載した写真の場所のように峠の茶屋のようなレストランとホテルがあるエリアもあります。ツーリングにはうってつけですね。
何もない山間部ですが、集落がちらほらあって人も結構見かけました。こんな山奥に生活している人たちがいるんだなと思いました。
ニースのレストランでラタトゥイユを食べてみたいなと思っていましたが、峠を下ってニースに着いたのはもう22時過ぎで断念。夜になってもパリのように涼しくはなりませんでした。
散々峠道を走りましたが、結局使ったガソリンは15L程度でした。FIAT500は燃費が良いですね!

帰路はEasyJetというLCCでオルリー空港に到着。トラムでC線に乗り換えようと思い案内に沿って行きましたが全然分からない!より一般的なオルリーヴァルはNavigoの適用外で有料なので、トラムの方はあまり利用させる気がないのでしょう…。ぷんぷん。
ちなみにそこここにある消毒液で手を消毒する度どうも右手が痛いなと思ったら、ハンドルで擦れたようです。ドライビンググローブって必要ですね。まあ今回すごい峠をたくさん走って満足したので、峠遊びは当分やらなくても良い感じです。

次回は今週のスイス旅行の活動報告です。しばらく旅行記が続きますね。

モン・サン=ミシェルへの旅(後編)モン・サン=ミシェル

15 1月 2020
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夕暮れのモン・サン=ミシェル

今週は土曜日に行われるオープンキャンパスの演奏会準備で大忙しです。今年から研究科(perfectionnement)に入った学生が挙ってコンチェルトを弾くので、数少ないヴァイオリンの学生はフル稼働。昨年一年目だった私は王室礼拝堂で演奏できましたが、今年はそういった機会はなく全員音楽院で演奏するようです。去年入った私は運が良かったのですね。

さて今回は前回の続き、モン・サン=ミシェルについてです。
高速道路を下りて田舎道を走っていくと、海が見えると同時に遠くにあの有名なモン・サン=ミシェルが見えました(私は運転していたので正面に見えた時しか見ませんでしたが)。両親も話していましたが天空の城ラピュタのようですね。遠くから見ても存在感があります。
モン・サン=ミシェル周辺は一般車の通行が禁止されているので、最後までモン・サン=ミシェルを目標地としてカーナビに従ってしまうと通行禁止の道に行ってしまいます。車で行く際は駐車場を目標にしたほうが良いですね。
さて駐車場に車を停め、看板に従って行くと木目調の側面が特徴的なナヴェットと呼ばれる往復バスでモン・サン=ミシェルの麓まで行くことができます。鉄道車両のように両運転台になっているのは折り返すのに便利だからだと思いますが、車内は輸送需要に対してあまり広いとは言えず超満員。景色を楽しみたいなら一本見送って着席した方が良いかもしれません。途中ホテルやレストランにアクセスできる停留所にも止まるので、長く滞在するにも便利ですね。
まずは全景を観察。砂浜と海に面した下層は荒々しい岩肌と堅牢な城壁に守られた市街地、上層は修道院と付属教会になっています。イギリスとの百年戦争時には要塞としての機能を果たし、陥落せず持ちこたえた堅固さが容易に見て取れます。ちなみに厳島神社とコラボして夏頃に設置されていた鳥居は既に撤去済みでした。どこにあったのでしょうかね。
門をくぐって中に入っていくとまずはお土産売り場やカフェ、歴史展示館や秘宝館が並ぶ市街地部分を通ります。まるで江の島のようです。監獄時代のモン・サン=ミシェルを詳しく知りたい方はこうした史料館に入ってみるのも良いかもしれませんが別途入館料がかかります。少し進むと左手にサン=ピエール教区教会があります。私たちは帰り際に寄ってみましたが、素朴で可愛らしい内装の聖堂でした。
やがて無骨な城塞のような修道院の建物が眼前に迫ってきます。階段も多少上りますが特別辛いというほどではありませんでした。例のごとく金属探知チェックがあった後、縦に長い「司祭の間」でチケットの購入やオーディオガイドを借りることができます。この「司祭の間」についての説明書きやオーディオガイドの説明は見学の一番最後にあります。
チケットを提示して見学を始めるとまずは付属教会と修道僧居住棟の間を進む大階段があります。最初から中世の雰囲気満点ですね。海岸を上がりきって「西のテラス」に出ると、大西洋と周りの陸地を一望することができます。修道院と教会の建設に使った石材はここから見ることのできる小島から運んできたのだとか。
教会の西側ファサードはこの部分が火災に遭った後1780年に再建されたもので、かつてのファサード部分は手前の階段と礎石にその名残を見ることができます(こういうネタは個人的にとても好き)。1010年に完成した聖堂の内部は身廊がロマネスク様式で天井は板張り、内陣は1421年に崩壊してしまったため再建されゴシック様式になっていますが、全体的にあまり飾り気がなく素朴な印象を受けました。
順路を進んで行くと有名な「ラ・メルヴェイユ(驚異)」と呼ばれる13世紀に建てられた北側の棟に入ります。なぜ驚異と呼ばれるかというと、この建物は付属教会と違い岩山の上に建てられているのではなく、地盤が遥か下層にありその上に3階建てになっており、なおかつそれが周囲の施設と絶妙に接続されているからです。基本的に建築には石材が用いられるため、これを実現するには高度な強度計算と設計、建築技術が求められることでしょう。一つ一つ部屋を見てしまうと全体像を把握するのはなかなか難しいと思いますが、パンフレットなどにある各階層の図を見るとそれが良く分かります。

美しい回廊

順路上最初に行くこの棟の施設はとりわけ有名な「回廊」で、2列の柱が修道僧の歩幅に合わせて交互に配置されている静謐で美しい空間です。天井には下層への負担軽減のため木材が使用されています。
次は「合同の食事室」ですが、側面の開口部が斜めに開けられており入り口からは見えないようになっているのが何とも見事です。
階下の「迎賓の間」は巡礼に訪れた国王や貴族を迎えるための場所で、天上のヴォールト架構がやや華やかな印象を与えてくれます。
「柱の礼拝堂」は先ほど見学した付属教会の内陣部分の階下にあたります。聖堂は大部分が岩石の上に直接建てられていますが、内陣部分はこの空間によって支えられています。巨木のような太い柱がいくつもあるだけの空間で、この場所で礼拝をおこなうことはなかったようです。
ここから付属教会を挟んで南側へ進むことになります。「聖マルタン礼拝堂」は付属教会の交差廊(内陣の手前の横に長い部分)の正面から見て右側部分の階下にあたります。開口部や装飾はほとんどありませんが、高い天井や窓の開口の仕方に中世建築の技術の粋を見ることができるでしょう。
続いては修道僧の納骨堂。今日では納骨堂としての姿を認めることは難しく、代わりに1820年頃に設置された貨物エレベーターの複製が目を引きます。巨大な車輪の中で収監された政治犯がハムスターよろしく歩き、その動力で下層から荷物を引き上げていたのです。
納骨される死者を弔うための「聖エティエンヌのチャペル」、西側のテラスの階下に位置する「南北階段」を通ると、「修道僧の遊歩場」という空間に着きます。この空間の用途は良く分かっていないそうで、比較的低い天井を持つ縦に長い空間が続きます。
「騎士の間」は「回廊」の階下にあり、修道僧たちが写本を作るなどの仕事場として用いていました。「修道僧の遊歩場」とは一転して天井の高い開放的な空間です。
最後に「司祭の間」へ戻り、土産物売り場を見て終了です。本当はテラスに行けるようですが、16時半で閉まってしまい行くことができませんでした。
17時を過ぎるとちょうど夕暮れ時となり、ライトアップされて美しい島の姿を見ることができました。

さて再び車を運転してカーンへ戻ります。日本のようにガソリン満タンで返却するのですが、ガソリンスタンドのシステムが良く分からない…。説明を読むと、まず建物の中にいる店員にこれからガソリンを入れる旨を告げて、入れ終わったらまた店内で清算するという手順のよう。なんて手間のかかる方式なんでしょう。
その後はカーンの市街地で迷ってしまいあわや列車を逃すかというところでしたが、何とか返却の駐車場にたどり着き列車に乗ることができました。フランスのカーナビって使いづらいです…。と思って携帯でグーグルマップのナビを見ながら行ったらおかしなことになりました(笑)。

次回は今週のオープンキャンパスの様子をお伝えしたいと思います。

モン・サン=ミシェルへの旅(前編)オマハ・ビーチ

8 1月 2020
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オマハ・ビーチのモニュメント

皆さま、明けましておめでとうございます。今年はカレンダー上都合がよく年末年始の休暇が長かった方も多いのではないでしょうか。
フランスでは相変わらず国鉄とパリ交通公団のストライキが続いていて、音楽院の夜の授業はパリに帰る人のために早く切り上げられたり、校内演奏会が延期になったりと身の回りでは少なからず影響があります。このストライキが始まってからもう一か月、RERのC線を始め全く列車を運行していない区間が数多くありますが一体いつになったら終わるのでしょう。

さてそんな中、フランスに来た両親と共に年末は色々なところに行きました。その中から今回はノルマンディー地方とモン・サン=ミシェルに行った話をご紹介したいと思います。
モン・サン=ミシェルに行こうとすると列車で行く、レンタカーで行く、バスやバスツアーで行くなど色々な手段がありますが、休暇中は列車やバスの値段が高く3人ではコストがかさむので、色々検討した結果ノルマンディー地方のカーンまで列車で行ってそこからレンタカーで行くことにしました。
ちなみになぜヴェルサイユからレンタカーで行かないのかというと、フランスのレンタカー料金体系は日本と少し違って、基本料金は一日単位で30-40€と安いのですがある一定距離(250kmなど)走るとそこから1kmあたりの追加料金が加算され、長距離を走るにはもの凄く高額になってしまうプランが大半なのです。フランスでレンタカーを借りる際はしっかり説明を読むことをお勧めします…。
そのような訳なので、一人往復20€弱と割と安く列車の切符が取れるカーンまでまずは行く…のですが、ここにもストライキが立ちはだかりました。前日になって予約していた列車が往復とも運休になると分かり、慌てて他の運転する列車を予約。差額分は払い戻されるという説明書きがあったので良かったですが、混雑して予約できなかったら旅行がキャンセルになってしまうところでした。メールでの通知も来ず国鉄のサイトで確認しなければならず、長距離列車を多用する方はストライキ期間中さぞ大変だろうなと思います。
カーンに着き、予約していた駅前のレンタカー窓口で手続きをします。今回利用したのはAVISという会社で、フランスでは大手の一つでフランス国鉄と提携しており、列車と一緒に予約すると特別料金が適用されたりします。初めてなので手続きが上手くできるかどうか少し心配でしたが、少し説明と書類にサインをするだけで簡単に借りることができました。一方で残念だったのは車種。予約する時に画面に表示されていたのはFIATの500で、私は一度この小さくてかわいい車を運転してみたかったのですが渡された鍵はPeugeot。「FIATじゃないんですかー?」と店員のお姉さんに言ってみましたが「Peugeotの方が広くて良いでしょ」と笑顔で言われてしまいました(笑)。事前に3人で乗ることを申告していたわけではなかったので単に配車の都合でしょうね。というかそもそもFIAT500相当クラスの予約というだけでFIAT500が指定されているのではなかったのだと思います。
そんなこんなでやや広めのPeugeot(残念過ぎて車種も覚えていません)で発進。事前に一応フランスの交通法規は勉強しましたがいざ走ってみると意味不明な標識や信号機があったりで特にカーンの市街地は中々スリリング。パリじゃなくて良かった…。
ちなみに私の運転免許証はどうなっているのかというと、学生は制度上フランスの運転免許証に切り替えができないので、在仏日本大使館で用意してもらった翻訳書類と日本の運転免許証で運転しました。国際免許証でも良いのですが日本にいた時はフランスで運転するつもりはなかったので申請していませんでした。
カーンの市街地を出て、直接モン・サン=ミシェルに向かっても良いのですがせっかくなので少し寄り道。今回カーンを起点にしたのは、昨年オーケストラの仕事で来た際に行くことができなかった第二次世界大戦の激戦、ノルマンディー上陸作戦が行われた浜辺に立ち寄るためでもありました。特に近代史や軍事のマニアというわけではありませんが、歴史を知る上で一度訪れておこうと思ったのです。
連合軍による上陸作戦が行われたノルマンディーの浜辺はいくつもありますが、今回は米軍の上陸地点で有名なオマハ・ビーチに行ってみました。高速道路を下りてしばらく田舎道を走ると、海岸沿いに建つコンクリート製の碑の近くに駐車場を見つけたので車を停めました。
のどかで人気のない静かな浜辺、コンクリート製の碑の裏側には写真のように現代アートのようなモニュメントがありました。これは何を現しているのでしょう…?この地に倒れた兵士たちの魂が昇っていく様でしょうか。周りを見渡してみると、海から陸地に到達するまで浜辺の距離がかなりあり、遮蔽物のない中で丘にあるドイツ軍の陣地から放たれる銃弾をかいくぐって突撃するのはかなり困難であったことが容易に想像できました。しばし黙祷。
近くにいくつかある戦争博物館は全て冬季休業のため入ることができず、あまり時間もなかったので近くのレストランで昼食をとった後本来の目的地モン・サン=ミシェルを目指すことにしました。このレストランもこんな過去がなければ外部から客など来なかったのかもしれませんが、特に夏季は当時を偲ぶ観光客や戦没者遺族が集まって繁盛するのかなと思いました。

次回はいよいよモン・サン=ミシェルのレポートです。

フランス南西への旅③バイヨンヌ、ポー編

13 11月 2019
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非常に高い天井を持つサント・マリー大聖堂

今週から今年度のオーケストラプロジェクトや王室礼拝堂の木曜演奏会が動き出しました。9月にこちらに帰ってきてほぼずっと一人で練習していたので、やはりオーケストラや合唱はいいなとつくづく思いながら弾いています。

さて今回はフランス南西への旅最終回、バイヨンヌとポー編です。
この日は祝日の11月1日でしたので博物館系は軒並み休館。滞在時間もあまり取れなかったのでざっと見るにとどめました。
バイヨンヌは古くから軍事的に重要な拠点となっていて、町は城壁と城塞、2つの川によって防御の構えを見せています。支流のニーヴ川を挟んでシャトー・ヴュー(古い城)がある方をグラン・バイヨンヌ、シャトー・ヌフがある方をプチ・バイヨンヌと呼びます。2つの城は古い方が11世紀、新しい方が13世紀と何れも古い城ですが、あくまでも防御のための要塞であって飾り気のない無骨な外観となっています。内部は双方とも公開していないようです。
グラン・バイヨンヌにあるサント・マリー大聖堂は見どころの多い聖堂です。13世紀から建築が始まったゴシック聖堂ですが、特筆すべきはその天井の高さ。掲載の写真で見ていただければお分かりの通り、何だか縦に引き伸ばしたように見えますが特に写真の加工はしていません。祭壇の後ろの各聖堂部分は他と打って変わって美しい彩色が施されていますが、あまりどぎつくなく繊細な感じに見て取れます。
外観は周囲に民家が建っていて中々きれいに全景写真が撮れないのですが、西正面は2つの鐘楼を備え、正面入り口部分が張り出した構造になっています。扉の周りには彫刻を削り取った跡が見られ、特に説明書きはありませんでしたが意図的に破壊されてしまったのだなと理解できました。入り口の左右には渦巻の形にデザインされた窓があります。こんな形は初めて見ましたね。南側には方形の大きな回廊があるのですが、祝日のためか入ることはできませんでした。
大聖堂から南へ住宅街を少し歩くと、「古い肉屋の塔」があります。ローマ時代の見張り塔を再利用したものだそうで、私はローマ遺跡がとても好きなので行ってみましたがただの円形の塔でした(笑)。
大聖堂周辺のグラン・バイヨンヌの家々は白い壁に色とりどりの柱が露出した古いもので、素朴でどこか懐かしいような印象を受けます。
最後にカズナーヴというショコラティエの喫茶コーナーで有名なショコラ・ムスー(泡立てココア)をいただきました。1854年の創業以来伝統的なチョコレートの製法を守り続けているそうで、ココアもやや苦みと酸味の強い独特な味でした。でもとても美味しかったですよ。
他にもプチ・バイヨンヌのニーヴ川沿いにはバスク地方の歴史や文化を紹介しているバスク博物館があるのですが、例によって休館でした。開いていたら是非入ってみたかったところです。

川越しに見ることができるポーの城

バイヨンヌからアンテルシテ(特急)に乗車し約一時間、最後の目的地ポーの街を目指します。乗車したアンテルシテは客車列車ではなく固定編成の電車列車でした。近郊電車だけでなく特急も客車から電車への転換が進んでいるのですね。
ポーはブルボン朝を創始したアンリ4世の生誕地で、ピレネー山脈を望む眺望が楽しめる街としても有名です。国鉄の駅は市街地より幾分低い土地にあり、駅前から無料で乗車できる緑の車体の可愛らしいケーブルカーがありますが行程上必要なかったので乗車しませんでした。ケーブルカーで行き着くことのできるピレネー大通りからはピレネー山脈を見ることができますが、天気が良くないとあまり綺麗に見えないのかもしれません。それでもとにかく山脈は遠くにあるので、雄大な景色というのではないのだと思います。
まずは散策がてら地図上でボーモン宮という建物を見つけたので行ってみましたが、1900年に建てられた冬の別荘だそうで、現在は集会等に使われているとのこと。バロック調で外観は美しいですが19世紀以降の建物ということでいつも通りスルー。
城にほど近いサン=マルタン教会と少し北方にあるサン=ジャック教会はいずれも古くからあった聖堂を取り壊して19世紀以降に再建されたものでした。
さてアンリ4世が生まれたという城、祝日のため休館だろうと思い最後に外観のみ見ようと思っていたのですが、行ってみると中から人が出てくるではありませんか。開館していたのか、ラッキー!と思い入館しようとしたらもうすぐ閉館すると言われてしまいました。ちゃんと確認すればよかった!!!残念。
まあそれでもフランス革命時に内部は荒らされ、ルイ=フィリップ王やナポレオン3世によって大規模な改築が行われてしまったのでアンリ4世時代を偲べるものは殆どないとのことですが。
少し時間があったので川越しに橋と城を見ることができる地点に行ってみましたが、うーん、夕方でかつ曇り空の景色は何だかちょっと今一つ。川霧が出ていたのは綺麗でしたけどね。

この後再び電車のアンテルシテで約3時間、乗り換えのためにトゥールーズへ行きました。次に乗る寝台特急との兼ね合いで1等車の切符を買いましたが、2等車の座席と大して変わりませんでした。ぼったくりやなこれ(笑)。
トゥールーズでは1時間乗り換え時間があったのであの美しい街並みをもう一度見たいと思い、市庁舎やサン=セルナン・バジリカ聖堂へ赴きました。昨年、フランス国内旅行で初めて訪れた街でしたが、個人的には未だに最も好きな街であり続けています。詳しくは過去の記事をご覧くださいね。
最後は寝台特急アンテルシテ・ド・ニュイに乗車。前回の2等車3段寝台は座るには少し辛かったので、今回は1等車2段寝台にしてみました。夜行列車は何度乗っても良いですね。

以上、全3回に渡ってフランス南西への旅をお届けしました。来週はついに!パリのサント=シャペルとコンシェルジュリーのレポートをお届けします。もう行ってきたので大丈夫です(笑)。

フランス南西への旅②ビアリッツ、サン=ジャン=ド=リュズ編

7 11月 2019
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大西洋に面した「処女の岩」

今回も前回に引き続き、フランス南西旅行のレポートです。
ボルドーから近郊列車TERに乗車し、大西洋沿いのリゾート地ビアリッツを目指します。
ビアリッツといえば今年の8月にG7主要国首脳会議があったことで一躍有名になりましたが、普段はゆったりとした時が流れるリゾート地です。気温も20度近くあり、終始コートを脱いで歩いていました。
国鉄の駅からバスに乗って20分ほど、バス停から歩いてまずは「処女の岩」を目指しました。途中の商店街などはまるで湘南のようで、海沿いの観光地はどこも似ているなと思いました。砂浜ではもう間もなく日が沈むというのに海水浴をしている人がちらほら。10月末ですが寒くないのでしょうか。
「処女の岩」は水族館のある岬から橋で渡った先にあり、マリア像があることからこの名がついています。まるで江の島のようですね。一面に広がる大西洋。大西洋は初めて見ました。
完全に暗くなる前にもう少し散策してみることに。「大浜辺La grande plage」には少し降りて歩いてみました。
ナポレオン三世の皇后ウジェニーの別荘を改装したホテル「オテル・デュ・パレ」に行ってみましたが、現在改装中とのこと。外観はルイ13世様式の建物ですが、それ以外は全く分からずじまい。
時間が余ったのでもう少し歩いて灯台まで行きましたが、海を見る他は特に何もありませんでした。
その後再びTERに乗ってサン=ジャン=ド=リュズヘ。この日は終了です。

ルイ14世の結婚式を見守った教会

翌日、ボルドーでの詰め込み観光が少し体に堪えたのか9時頃まで寝てしまい、ようやく行動開始。
ホテルには2泊するので極力荷を部屋に置いて、国鉄駅前からバスでラ・リューヌ山を目指します。といっても目的の大部分は山頂に登ることではなく、途中の登山鉄道に乗車すること。
1924年に開業したラ・リューヌ鉄道は今年95周年を迎え、その旨が宣伝されていました。古めかしい木製の機関車が麓側に着き、これまた木造で車体を軋ませながら走る客車2両を押し上げていきます。
ホームに入場が始まるとすかさず機関車に最も近い麓側の席を確保。え、何故かって?もちろん登坂で負荷がかかるモーターの唸りを聞きたいからです(笑)。
出発前に車両を観察してみましたが、どうも通常の線路に接する車輪には動力を伝えず、線路の間にあるラックレールと噛み合う歯車のみで坂を上っていくようです。乗務員は機関車と一番前の客車に乗り込みました。
いよいよ坂に挑みます。とても急な坂!日本にはケーブルカー以外にこんな急坂を行く鉄道はありません。見る見るうちに麓の駅が遠くなっていき、遠方にサン=ジャン=ド=リュズの街と大西洋が見えてきました。車内放送はフランス語、スペイン語、バスク語の三か国語で何か説明がありましたが、とにかくモーターの音がすごくてよく聞き取れませんでした(笑)。いいんですよ!私はこれで!
しばらくすると平坦線となり、崖と岩肌の間を抜ける模型のような線路を走っていきます。途中に対向列車と行き違いできる部分があり、みんな手を振って応えてくれました。やがて再び急勾配区間となり、山頂に到着。頂上はあいにく雲の中で景色は何も見えませんでしたが、晴れていればピレネー山脈や大西洋等が一望できるようです。
せっかくきたので晴れるかもしれないと一縷の望みをかけ、山頂の喫茶店でココアを飲んで一服しましたが結局晴れずじまい。少しだけ周辺を散策してみることにしました。といっても前述のウジェニー妃の記念碑と、放牧されている馬を見るくらいで、後はフランスとスペインの見えない国境を楽しみました。一応スペイン上陸を果たしたということで。
サン=ジャン=ド=リュズの町まで戻った後は2つ目の目的へ。それはルイ14世の足跡をたどることでした。
この小さな港町が歴史の表舞台に立ったのは1660年、若きフランス国王ルイ14世とスペインの王女マリー・テレーズの結婚式が行われたことでした。サン=ジャン=バティスト教会がその会場となりました。この教会は一部は15世紀の竣工ですが大部分は1649年に完成しましたが、装飾どころか開口部もあまりない質素な建築で規模もあまり大きくありません。実際問題として国王夫妻の結婚式を行うには参列者を迎えきれないため、木製の階上席が後方に5階、両側面に3階建てで設けられている風変わりな内部になっています。内陣の壁面は鮮やかに彩色され、祭壇の構造物は青を基調として葡萄、天使、生き物が巻き付くように装飾された円柱の間に聖人たちか配置されているという凝ったものになっています(ゴテゴテしているという方が正しいかも)。結婚式の際の絵の背景にもこの祭壇が描かれていますので、当時からあったものでしょう。祭壇に向かって右手の外壁には、かつて国王夫妻の通路としてのみ使用され、その後閉塞された部分が説明書きと共にあります。
教会から海に向かって少し歩くと、ルイ14世が結婚式に際してしばし滞在した館「ルイ14世の家」があります。建物が面している「ルイ14世広場」に木が植えられていて綺麗に写真を撮ることができないのですが、両角に張り出した部分を持つこの町ではやや凝った設計の建物です。内部見学は1日3回のツアーのみですので、訪れる際は必ずスケジュールをよくご確認ください。内部は応接間、寝室とそれなりに豪華ではありましたが、ヴェルサイユ宮殿を良く知っていると目を見張るような感動はあまりないかもしれません。ただルイ14世が若き日にここを訪れたのだなという思いには浸ることができました。
海沿いにもう少し歩いていくと煉瓦と砂岩でできた「王女の館」もありますが、こちらは地上階に一般の商店があり、観光用には開放していないようです。

次回は最終回、バイヨンヌとポー編をお送りします。

フランス南西への旅①ボルドー編

31 10月 2019
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ペイ・ベルラン塔から見たボルドーの街並み

今週はヴェルサイユを離れフランス南西部に来ています。昨日までボルドーに滞在、今はスペイン国境近くのサン=ジャン・ド・リュズにおります。
今回は旅行途中につきいささか簡略的ではありますが、ボルドーの街と訪れた施設を紹介します。

そもそもなぜ今回ボルドーに来たかと言いますと、師匠パトリックの紹介でボルドー地方音楽院の教職コンクールに際する生徒役を担当するためでした。謝礼は僅かばかりの商品券だけですが、旅費は全て出るのでまあ良いかと。
呼ばれていたのは火曜日の午前中だったので当日の朝パリを立つ予定だったのですが、前日の昼頃突然フランス国鉄からメールが来ました。なんとTGVアトランティクのストライキにより予約していた列車を始め殆どが運休となってしまったのです。色々考えた挙句、約束の時間に音楽院へ着くにはもう今日出るしかないという結論に達して、運休にならなかった最終のTGVと今夜のホテルを予約してあたふたと用意を開始…。
21時頃ボルドーに着き、どこを観光できるわけでもなくそのままホテルへ直行しこの日は終了。もう少し運休が早く分かっていれば早く来て観光したのに!
翌火曜日は時間通りに音楽院へ赴きました。予め提示されていた曲目は5曲あり、ヴェストホフのソロ組曲もあってわりと譜読みに時間を取ったのですが、蓋を開けてみればヴェストホフは結局弾かずじまい。まず教職受験者のおじさんが2曲弾いた後、私ともう一人の生徒役が出てマッテイスのチャッコーナの冒頭を少しだけ弾いてレッスン風な事をして終了。その人の可否はどうなったのかわかりませんが、生徒役としてはなんだか拍子抜けでした。そもそも2人必要だったのかすら怪しい…笑。
まあそんなこんなで昼には自由となり、同じく生徒役として来たヴェルサイユ地方音楽院フルート科のクレマンと昼食を共にし、後は観光の時間となりました。彼は前日に楽譜を印刷したと言っていました。とほほ。

ボルドーはご存知ワインの生産と、ガロンヌ川河口に位置し大型船が出入りできる港を持っていることでローマ時代から栄えてきました。10世紀後半からアキテーヌ公国領となり、婚姻によってイギリスの支配下に入ったこともありましたが、百年戦争以後はフランス王国に帰属することになります。しかしその豊かさと自治力の高さからルイ14世の絶対王政確立まで度々王権に対して反発し、反王権勢力の溜まり場のようになっていました。フランス革命期には穏健派であるジロンド派の本拠地になりました。その後の大きな戦争でパリが危うくなると、一時的に政府が置かれる街として機能しました。
現在でもボルドーといえばワイン、世界中のワインファンがぶどう農家やワイン生産者の元へやってきます。
そんなボルドーですが、とにかく17-18世紀の古い街並みが魅力的です。ヴェルサイユ以上の規模と範囲を誇っていて、車や人が全て居なくなったらすぐにでもタイムスリップできそうです。どの程度かというと、現代的な車や看板があればとても浮いて奇異に見えてしまうくらい。
景観保持の努力は路面電車の線路に架線を張らず地表集電にしているといったところにも見られます。

それでは以下、滞在中に訪れた施設です。

  • ボルドー地方音楽院
  • フランスの偉大なヴァイオリ二スト、ジャック・ティボーの名を冠する音楽院です。ボルドーの街並みとは異なり現代的な建築物で、外見は上野の東京文化会館のような印象。広大な校舎で練習室がたくさんありました。隣接する聖十字架修道院をキャンパス内から間近に見ることができます。

  • アキテーヌ博物館
  • 先史時代から現代までのボルドーやアキテーヌ地方を中心とした展示を見ることができます。色々ありましたが特に印象的だったのは黒人奴隷貿易に関する展示でした。

  • ボルドー美術館
  • 15世期から20世紀までの主に絵画、一部彫刻コレクションが展示されています。ティツィアーノやルーベンスもあるので見逃さずに。ボルドーの街並みを描いた18-19世紀の作品もあり、町並みが当時からほとんど変わっていないことが分かります。

  • カンコンス広場とジロンド派の記念碑
  • トランペット城と呼ばれたかつての要塞の跡地で、19世紀に広場として整備されました。訪れた際にはたくさんの屋台が設置されていましたが常設かどうかは分かりません。西側の端にはジロンド派の記念碑と噴水があります。

  • 円形闘技場跡
  • 公共公園の近くの住宅街にひっそりと佇む、数少ないボルドーのローマ遺跡。2万2千人を収容できた巨大な闘技場でしたがフランス革命頃の町の改造によりほとんどが破壊され、現在ではそのほんの一部を見ることができます。

  • ピエール橋
  • ガロンヌ川には街の防衛上、長らく橋はありませんでした。最初の橋は1822年に完成したこのピエール橋で、赤煉瓦と砂岩による美しい橋です。架線がなく一見分かりませんが路面電車も通っています。

  • シテ・デュ・ヴァン
  • 直訳すると「ワインの首都」となりますが、ワインセンターのようなものでしょうか。曲線が特徴的なモダンの建築物です。残念ながら閉館時間が迫っていて入館を断念しましたが、ワインに関する色々な展示、講座の実施があるようです。

3つの世界遺産登録の聖堂

  • サン=スラン大寺院
  • 古い部分は11世紀初頭の建設であるロマネスク聖堂。度々増改築したようで、柱の形状が途中から異なっていたり本来は祭壇下にある地下聖堂が聖堂中央付近にあったり、主祭壇の奥は平面なのにその横の小さな聖堂はちゃんと半円形になっていたりと、なかなか迷要素の多い聖堂です。地下聖堂には4世紀頃の石棺が安置されていている他、夏季には聖堂南側の入り口から入って4-6世紀頃のキリスト教徒たちの地下墓地を見学できるようです。

  • サン=タンドレ大聖堂
  • 古い部分は11世紀、大部分は12世紀の建設によるゴシック聖堂です。ルイ14世の両親、ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの結婚式はこの聖堂で執り行われました。
    一番の特徴は聖堂の正面が通常の西側ではなく、司教の宮殿が位置する北側に設定されていることです。このことから西側はまるで切り落としたかのように全く装飾がありません。聖堂内部はその規模もさることながら、天井のリブ・ヴォールトの意匠が特徴的です。
    外壁は現在ほとんどが修復され新築のように真っ白になっています。
    ペイ・ベルラン塔と名付けられた聖堂北側の独立した鐘楼には登ることができます。この地域は地盤が弱く、重量のある塔と鐘の振動から聖堂を守るために独立しているのだとか。教会の塔には付き物の狭い螺旋階段を登っていくと2つのテラスがあり、今回掲載の写真のようにボルドーの街を一望することができます。

  • サン=ミシェル大寺院
  • 14世紀末から建設が開始された聖堂。やはり鐘楼が聖堂西正面の前方に独立して建てられています。この塔には登ることはできませんでした。
    聖堂内部の壁面はわりとあっさりしているなという印象です。後方のオルガン周辺の壁面だけ近年修復したのか真っ白になっていました。

この他にもまだまだ魅力的な場所がたくさんあると思います。ワインだけではないボルドー、皆様も是非足を運んでみてくださいね。
次回はさらに南西へ、ビアリッツ、サン=ジャン・ド・リュズへ旅を続けます。

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