【最終回】いつも心にヴェルサイユを

最後にもう1度訪れた際のヴェルサイユ宮殿

ヴェルサイユに居を構えてから2年と2か月、ついにこの地を去る時がやってきました。右も左もわからないままフランス生活を始めた日が昨日の事のような、本当にあっという間の留学生活でした。
そういうわけで、今回は帰国に向けた撤退の模様と、留学の総括を書きたいと思います。
先週のリサイタルが終わってから一夜明けた火曜日から部屋の片づけを開始。その前から少しづつ着手する予定でしたが、まだ使うものが多いのと、追い詰められないとなかなかやらないのもあってあまり進捗は良くありませんでした。夜はパトリックの家に行って晩餐会、最初に私が蕎麦を出し、続いてパトリックがフランス料理の茄子の炒め物を出し、最後に私が昼間作ったわらび餅を出す日仏文化交流。蕎麦を食べ終わった後はちゃんと蕎麦湯を飲みましたし、わらび餅は彼らにとって非常に興味深いものだったようです。
水曜日から日曜日までは、なんとドイツ旅行に出かけました。帰国準備をしないといけないのは分かっていながら、やはりどうしても1回ドイツには行っておきたかったのです。もっと早く行けばよかったんですけどね。ベルリン、ライプツィヒ、ノイエンマルクト、バイロイト、ニュルンベルク、ネルトリンゲン、マンハイムを訪れました。音楽関係ではフリードリヒ大王のロココ趣味を直接感じるためベルリンのシャルロッテンベルク宮殿とサン・スーシ宮殿へ、ライプツィヒではもちろんバッハが勤めていた聖トーマス教会と聖ニコラス教会、バッハ博物館、シューマン邸、バイロイトでは規模は小さいながらもバロック様式の劇場ががほぼそのまま現存する数少ない例であるバイロイト辺境伯劇場と外観だけヴァーグナーのバイロイト祝祭劇場、あと懲りずに宮殿観光、マンハイムではマンハイム楽派の作曲家が活躍したマンハイム宮殿へ行きました。その他はドイツといえばやはり鉄道ということで、各地に点在する蒸気機関車を中心とした博物館に行きました。あとはやはり人間の負の歴史もしっかり見ておこうと思い、ベルリンの壁や東西冷戦の痕跡が残る場所、そしてベルリン近郊にあるザクセンハウゼン強制収容所に行きました。ドレスデンやハンブルク、ケルンなどにも行きたかったのですがどうしてもこれ以上予定を詰めることができませんでした。
そんなわけで月曜日になり、本格的に片付け開始。掃除は来た時よりも美しくをモットーに念入りに行っていきましたが、荷造りの方は遅々として進まず…。あとやはり最後にもう一度ルーヴル美術館とヴェルサイユ宮殿に行っておきたくて、それでも時間を使い水曜日の夜になってもかなりの物がパッキングされていない状態になってしまいました。もうこうなったら徹夜作業、最後の夜で感傷に浸る間もなく朝を迎えました。厄介なことに出発の朝はあいにくの雨、桐朋時代からの先輩が大変ありがたいことに手伝いに来てくれましたが、2人でも2つのスーツケースと段ボール箱を運搬して雨の中を行くのは困難でした。しかもリーヴ・ゴーシュ駅にたどり着いてみるとC線が運転見合わせ状態になっていて、改めてヴェルサイユ・シャンティエ駅まで歩く羽目に。ちょうど9月いっぱいでナヴィゴが期限を迎えてしまい、切符を買おうと思ったら月初めでナヴィゴをチャージする人が多くラッシュ時であったこともあって券売機は長蛇の列…。改札を通った後は改めて階段が多いのを感じながら、国鉄、メトロを乗り継いでオペラからロワシーバスに乗車しました。価格も高く酔うので嫌いなのですがもう必要悪です。空港に着く頃には段ボール箱が濡れてかなり強度が落ちており、大きいラップでぐるぐる巻きにするパッキングサービスを初めて利用しました。出国審査は空いていてすぐ終わりましたが手荷物検査が全然進まず20分ほど待たされ、気が付いたら搭乗時間ぎりぎりに。急いで携帯SIMの解約電話をかけて、飛行機に搭乗しました。さようなら、ありがとうフランス。
徹夜したので飛行機の中で良く寝られ、飛行時間が短く感じました笑。さて成田空港に着いてみると、3月の帰国時とは違い唾液採取の検査場が設けられ、結果が出るまで1時間ほど待ちました。スタッフの装備もフェイスシールドが追加されています。いや、これ3月以前からやるべきだったでしょう?あの時はこのブログにも書きましたが中国とイタリアのそれぞれ一部地域に滞在していた人は自己申告して専用レーンに行くようになっていました。対策が遅すぎます。やりようによっては内需を維持して経済をあまり落ち込ませないことだってできたはずです。
あと、検査結果を待っている間周りから会話がちらほら聞こえてきましたが、やはり陽性=患者だと思っている人が多いようです。それと、この検査の精度っていかばかりなんでしょうね。
その後は父の運転する車で帰宅しました。さて14日間の引きこもり!

それでは次に、留学の総括をしたいと思います。
世界中の録音や動画を瞬時にインターネットで検索できるようになり、世界のトッププレーヤーも数多く日本にやってくるようになった現代において、果たして留学することに大きな意味はあるのかと留学前は思っていました。しかし実際に留学してみると、そんな考えは完全に誤りであることが分かりました。西洋音楽とは即ち西洋文化であって、西洋の言語、宗教、習慣や建築、美術、文学、演劇など様々な他分野の芸術と相関し、音楽だけを切り離すことはなかなか難しいものです。日本で楽器を習って楽典やソルフェージュをやっているだけでは、西洋音楽に携わるにあたり最低限必要な技術と知識を習得しているにすぎません。本当の意味で西洋音楽を学ぶには、例え1回でもヨーロッパに渡って、歴史的な街並みを歩いたり歴史的建築物の中で演奏してみることは必須の経験だと今は考えています。特にヴェルサイユ地方音楽院は1672年からある、ヴェルサイユ宮殿の一部を成していると言っても良い建物で、一階はあまり改装が行われておらず17-8世紀の音響を学ぶには良い環境でした。響きが良い、というと勿論そうなのですが、良い音を出せば良く響き、悪い音を出せば悪く響くのです。どういう音が良い音なのか空間が教えてくれるという、日本ではしたことのない体験をしました。もちろんヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂、鏡の回廊などもそうであることは言うまでもありません。西洋音楽に携わろうという人、特に古楽を専攻したい方は歴史的建造物の中でこういう体験をすることを強くお勧めします。
次に、ことフランスのバロック時代の音楽を勉強したかった私にとってヴェルサイユは最高の環境でした。宮殿を始め古い建物が多く残っているのはもちろんのこと、このレパートリーに非常に明るいパトリック・コーエン=アケニーヌの下で勉強できたこと、ヴェルサイユ・バロック音楽研究センターのプロジェクトである、学生歌手や少年少女合唱団と毎週のように参加した王室礼拝堂の木曜演奏会、大小さまざまな弦楽器を使用する24のヴィオロンのオーケストラプロジェクトに参加できたのは非常に大きな喜びでした。長年指導にあたっているオリヴィエ・シュネーベリOlivier Schneebeliはかなりの高齢でそろそろ引退する時期だと思うのですが、毎回エネルギッシュに指揮を執る姿がとても印象的でこちらまで力をもらうようでした。また幸いほとんど全ての機会において首席を担当させてもらい、アンサンブルを牽引する役割も学ぶことができました。
その中で残念だったのは、やはり最後まで私のフランス語コミュニケーションが完全ではなかったことです。そもそも自分の考えを他人に分かりやすく伝えることが下手だという問題もありますが、やはりヴェルサイユにいるのですからもう少し美しく趣味良い話し方をしてみたかったです。それでも一年目に語学学校に通い詰めたことで少しはレベルが上がったのか、例えば電気の契約の電話では着いた時はほぼ全く内容が分かりませんでしたが、火曜日に契約終了の電話をした時には8割くらいは分かるようになっていました。ほぼ同じような内容だったと思うのでとても懐かしかったです。
あとは、できれば26歳になるまでにもっといろいろな美術館や博物館に入り、旅行をたくさんしたかったです。いつでも行けると思っているとなかなか行かず機を逸してしまいますね。かなり多くの機会において25歳以下の学生は優遇されるので、留学を考えている方は是非早いうちに行くことをお勧めします。

目を閉じると今でも思い浮かぶのは、まるでオペラの一場面のようなプラタナスの並木道と、その先に聳え立つ壮大で美しいヴェルサイユ宮殿、そしてそこで一緒に活動した先生方や同僚の顔です。私の心の中にはいつもヴェルサイユがあって、いつでも記憶の中を旅することができます。例え2年間だけでもヴェルサイユで活動できて本当に良かったと、これからもそう思い返していくことでしょう。

今回でこのブログは終了になります。2年間に渡りご愛読いただきまして、誠にありがとうございました。

【完】