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マントノン夫人展とマリー・レクザンスカ趣味展

12 6月 2019

現在開催されている2人の女性に関する特設展

相変わらず涼しい日が続いています。一時期暑くなって冬用の布団や服を物置に移動しましたが、一部をもう一度持って来なくてはならなくなりました。まあ暑いよりは快適で良いですね(何度も書きます)。
先週は木曜演奏会でカンプラのレクイエム、大厩舎で「平和の田園詩」の本番がありました。どちらもヴェルサイユ音楽研究センターと密接に連携した内容、会場共に素晴らしいプロジェクトでした。今年の大きな演奏会はこれで終わりましたがとても良い経験を1年目でできたなと思っています。

さて今回は現在ヴェルサイユ宮殿で開かれている2つの特設展、マントノン夫人展とマリー・レクザンスカ趣味展についてお伝えします。
今年で没後300年になることを記念した「マントノン夫人展~権力への道の中で~」は王のアパルトマンの向かいに設けられたマントノン夫人のアパルトマンで開かれています。
ここでマントノン夫人について簡単に触れておくと、まず彼女の本名はフランソワーズ・ドービニェといい、幼少期はカリブ海の植民地マルティーク島で過ごしました。開拓には成功せず一家は貧しいままフランス本土へ帰国、間もなく両親がなくなり25歳年上の喜劇作家ポール・スカロンと出会い結婚、妻としてだけではなくリウマチで身体が不自由だったスカロンの看護師も務めました。夫の文芸サロンでモンテスパン侯爵夫人と出会い、まもなく彼女がルイ14世の愛人となって子供を設けると、フランソワーズは夫人から子供たちの養育係に任命されました。出産しただけでその後の母としての務めは果たさなかったモンテスパン侯爵夫人に代わって献身的に子供たちを養育するフランソワーズは王の目に留まり、多額の年金を与えたことで彼女はマントノンの所領と城を購入し、マントノン侯爵夫人と呼ばれるようになりました。国王の寵愛の衰えを感じていたモンテスパン侯爵夫人は彼女へも嫉妬の矛先を向けますが、やがてモンテスパン夫人は黒ミサ事件により宮廷を去り、マントノン侯爵夫人はルイ14世の寵愛を得るようになります。1685年末、既に王妃がなくなっていたためルイ14世とマントノン侯爵夫人は密かに結婚、ヴェルサイユ宮殿に今日あるアパルトマンを与えられました。大貴族の出身でもない彼女が国王のアパルトマンの近くに居を構えたことは宮廷内に衝撃を与えました。それからの晩年のルイ14世は一日数時間を彼女と共に過ごし、信心深い彼女の影響を多大に受けました。非公式ながらも国王の妻となったマントノン侯爵夫人は豪奢な生活を送るのではなく、弱小貴族の子女を支援する聖ルイ王立学校を創設するなど貧困救済と教育に力を入れていました。ルイ14世の崩御が決定的なものとなると、彼女はヴェルサイユ近郊のサン=シールへ身を引き、1719年に亡くなりました。
マントノン夫人のアパルトマンは2つの控の間、寝室、大広間からなっています。大理石の階段を上がった先、左手に国王のアパルトマンを見て右手にそのアパルトマンは位置しています。特設展では控えの間にまずポール・スカロンやモンテスパン侯爵夫人との関係を示す展示物があります。寝室と大広間には慎み深そうな印象を受ける有名な彼女の肖像画がある他、ルイ14世との書簡も展示されています。ルイ14世に愛された女性、王とモンテスパン侯爵夫人の子供の代母、及び教育者としての彼女のそれぞれの一面を垣間見ることのできる特設展でした。室内の装飾はいずれもオリジナルのものではないのでしょうが、それでも彼女がこの地で王と共に静かな時を過ごしたことに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

さて大理石の階段を降りて右へ進むと、王太子妃のアパルトマンの空間でマリー・レクザンスカ趣味展を見学することができます。
マリー・レクザンスカはルイ15世の王妃ですが、マリー・アントワネットと比べると知名度は決して高くなく、また評価もあまりされない人物です。しかし彼女は王国の後継者を残すという大きな使命を果たしただけでなく、ルイ15世時代の文化の洗練に大きく寄与していました。この展覧会ではそのことを改めて認識することができます。
マリー・レクザンスカはポーランド国王スタ二スラフ1世の娘でしたが、まもなく彼はポーランド王位を追われ一家はフランスのアルザスへと亡命を余儀なくされました。ルイ15世は1721年にスペインのフェリペ5世の娘マリアナ・ビクトリアと婚約していましたが、間もなくルイ15世が重病を患うと、まだ幼くルイ15世との子を成すのに時間がかかりすぎると判断されたマリアナ・ビクトリアとの婚約は破棄され、スペインへと送り返されることになりました。当時周辺ではカトリックの王国は少なく、ルイ15世に適した王族の血を引く女性として最終的に選ばれたのが、当時もはや弱小貴族となり果てていた元ポーランド国王の娘マリー・レクザンスカだったのでした。1725年の結婚から2年後の1727年からこれ以上の出産は危険であると医師に警告される1738年までに、彼女は2男8女の子供を出産するという王妃の重要な使命を果たしました。しかし出産に疲れ果てた彼女はその後一転してルイ15世を拒否するようになり、以後は信仰や芸術、貧困救済などへ力を注ぎました。
第一控えの間では彼女の両親と子供たちの多くの肖像画に囲まれ、待望の王太子を抱えた威厳あるマリー・レクザンスカの肖像画が掛かっています。ちなみにジャン=マルク・ナティエによる王女たちの肖像画は王女のアパルトマンでも見ることのできるものですが、説明書きには複製という但書がないのでオリジナルのものが展示されていると思います(ナティエ作の王女たちの肖像画は個人的に好きなのでこれは嬉しいです)。

王女たちの肖像画

第二控えの間には「五感」と題され王妃の奥の私室に飾られていたジャン=バティスト・ウドリーの作品が全て並べて展示されています。穏やかな田園風景に動物や人物が描かれる中で、触覚、聴覚、視覚、味覚、嗅覚が表されています。王妃はお気に入りの画家であった彼の作品を模写することから始め、ついに自分の作品を描くに至りました。「村」と題された「五感」の対面に展示されているこの油絵はとても良く仕上がっており、農村の家や村人、鳥や牛が生き生きと描かれています。1754年に彼女はルイ15世にこの絵を贈り、彼もこれを嬉しそうに受け取っていたという証言が残されています。左には同じく彼女の手による、王太子に戦場を見せるルイ15世の様子が描かれた「フォントネの戦い」を見ることができます。

中国の様子を想像で描いたキャンバスシリーズ

寝室には「中国人の部屋」と呼ばれるキャンバスシリーズの内の4枚が展示されています。当時流行していた中国趣味によりマリー・レクザンスカは1747年に奥の居室の一室を中国風に装飾しましたが、1761年からはこのキャンバスシリーズへと移行し、宮廷の5人の画家と王妃がこれを製作しました。中国絵画に着想を得ているのは勿論のこと、旅人や中国へキリスト教布教を行うイエズス会士の証言にインスピレーションを受けた建物や人物が、まるでその風景を見てきたかのように豊かに描写されています。これらの作品は王妃崩御の後、侍女であったノアイユ伯爵夫人に遺贈され、その後はノアイユ一族によって大切に保管されてきましたが2018年にヴェルサイユ宮殿によって買い戻されたということです。2枚ずつのキャンバスシリーズの間にある鏡の下には、スタ二スラフ1世をポーランド王位から追い出した新ポーランド国王アウグスト3世から外交関係の改善を目的として1737年にフランスへ贈った、マイセン製の磁器ティーセットの一部が展示されています。フランスとポーランドの国章がデザインされ、音楽家や役者たちなどが描写された細密画が施されています。これらもまた最近ヴェルサイユ宮殿が買い戻したものだそう。
最後の奥の間には、宗教画や宗教関係の蔵書が展示されており、彼女の信仰に根差した生活を垣間見ることができます。ジョゼフ=マリー・ヴィヤン作の「中国に到着したフランシスコ=ザビエル」は私用アパルトマンの扉上部に飾るためのもので、主題は彼女自身が選択したものです。聖人の中でもフランシスコ=ザビエルをとりわけ敬愛していた彼女は彼に関する聖遺物や絵画をいくつか所有していたということです。中国に到着したことを観客に想起させるのはそばに描かれた船に乗る中国人たちだけですが、これもまた中国、東国趣味の流れから来るものでしょう。
この部屋には最後の展示として「マリー・レクザンスカとギリシャ趣味」という名のもと3点の花瓶が置かれています。ロココ様式とは異なるこの新古典様式は、後のルイ16世、マリー・アントワネットの時代へとつながっていきます。

次回は現在ヴェルサイユで開催されている「モリエール月間」についてお送りします。


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