Monthly Archives: 11月 2019

パリ・シテ島編④コンシェルジュリー

27 11月 2019
パリ・シテ島編④コンシェルジュリー はコメントを受け付けていません

マリー・アントワネットも散歩したであろう女たちの庭

先週から今週にかけてヴェルサイユ宮殿では見逃せないスペクタクルが連日目白押し。私は合計4つのオペラ、演奏会に行ってしまいました!木曜日には自分が出演する木曜演奏会もあり、出演者から聴衆へ早変わり。そのまま出演できればいいんですけどね…。

さて今回はシテ島編の続きとして、コンシェルジュリーのご紹介をします。
コンシェルジュリーは3つの丸い塔と1つの四角い「時計の塔」を持つ、バロック様式の建物が多い周辺ではひときわ目を引くゴシック様式の宮殿です。王がシテ宮殿から居城を移した後、王によって宮殿の管理を任された管財人のことを「コンシェルジュ」と呼び、次第にその名が建物の名前となっていきました。ここにはその堅牢な構造から高等法院や革命裁判所と牢獄が置かれ、牢獄は激動の革命期を経て実に1934年まで使用されていました。よってこの建物は宮殿としてよりも牢獄として有名であり、マリー・アントワネットを始めフランス革命期の多くの囚人を収容したことで知られています。
パレ通りに面した時計の塔にはその名の通り壁時計があり、オリジナルではないものの1585年製の時計が今も動いています。雨ざらしですがよく手入れしているようで、青地に金の装飾が目を引きます。
時計の左手から入場ができます。さすがといいますか、ここにも入り口には空港のような手荷物検査場があります。まず最初は半地下のようになっている巨大な空間、衛兵の間からスタートです。フィリップ4世治世下の1302年に完成した空間で側面に4つの大きな暖炉を持ち、柱から伸びたリブが交差しあうヴォールト架構になっています。日頃はがらんとしているのかもしれませんが、今はちょうど「マリー・アントワネット~その像の変貌~」展が開催されていて、スペースはほぼ展示で埋め尽くされていました。マリーの服飾、書簡から彼女を題材とした絵画、映像作品に至るまで多角度からその姿に迫る展示となっていますので、マリーが好きな方は行ってみてくださいね(ちなみに私は特段マリーが好きというわけではないです)。
順路の次の部屋は厨房で、ジャン2世の治世化に設置されました。この辺りは中世の宮殿の雰囲気を味わえる空間ですね。部屋の角に調理場と排煙設備があり、天井は同じくヴォールト架構です。シテ宮殿の昔の様子をCGで再現している映像が流れていて中々興味深いです。
衛兵の間へ戻り入り口から見て奥へ進むと、警備の間と「パリ通り」があります。警備の間は衛兵の間と同じ役割を担う部屋ですが、より小さくかつて上部にあった大広間への控えの間となっています。「パリ通りLa rue de Paris」は縦に長い空間で元々は衛兵の間の一部でしたが、後に仕切られて最も身分の低い囚人であるパイユーが収監される、わらが敷かれたのみの雑居房となっていました。ちなみに「パリ」は町の名前ではなく死刑執行人として知られたムッシュー・ド・パリから取られた名前とのこと。周囲に窓はなく日が当たらない雑居房は非常に不衛生で病気が蔓延する酷いものでしたが、今日ではそんな過去はどこへやら、お土産売り場になっています。
「パリ通り」を抜けると、左右に格子で仕切られた小部屋がありいよいよ牢獄といった感じです。それぞれ囚人を登録する書記、牢獄の所長、囚人の収監前に断髪を行うための部屋だそうです。右手の順路ではフランス革命とコンシェルジュ牢獄を紹介する展示を見ることができます。収監されるのも有料であった当時は前述したパイユーと、ピストリエ、プリゾニエ・ドゥ・マークという3つの階級で生活環境が全く異なり、パイユーはベッドすらなくわらが敷かれた房で家畜のように扱われ、中流階級のピストリエでも簡易ベッドが置かれただけの雑居房であったのに対し、マリーを始めとした富裕層プリゾニエ・ドゥ・マークは独房で家具を入れることができるなど比較的快適な生活ができたようです。
階段を上がると「名前の部屋」と呼ばれるフランス革命期に収監された四千余名の人物の記録を見ることができる部屋があるのですが、何故か私が行ったときは閉鎖されていて、隙間から壁にたくさんの人名が書かれていることだけ確認できました。廊下には3つの独房がありますが、これは革命200周年の1989年に復元されたもののようです。しかしそれでも当時の獄中生活の過酷さを容易に想像することができます。奥の部屋では革命と裁判所についての展示があります。共和政を守るという名の下設置された公安委員会は恐怖政治を行う独裁機構となり、敵対する勢力を政治犯として次々と裁きましたが、やがて独裁からの解放を願った市民のうねりからロベスピエールらも処刑され、公正な裁判所への刷新が行われました。
階段を降りると礼拝堂があります。元々は王のための礼拝堂でしたが牢獄になってからは囚人のための礼拝堂となり、フランス革命期にはここすらも雑居房になっていました。奥にはマリーが使用していた独房の1つである贖罪礼拝堂があります。革命後、ルイ18世によって修復が行われたとのことですが、近年また修復されたようで事前に見ていた写真の様子と全く違いました。黒い壁面に白い火の玉?のような小さい模様が描かれています。今回掲載した写真の「女たちの庭」は礼拝堂の外にあり、女性囚人の散歩と洗濯のために使われていました。散歩をするにはあまりに小さい中庭ですが、マリーもここで少しは気晴らしができたことでしょう。

マリー・アントワネットが最後の数か月を過ごしたコンシェルジュリー、彼女の足跡を辿りに是非足を運んでみてくださいね。
来週はこの頃ヴェルサイユで鑑賞したスペクタクルをまとめてレビューしたいと思います。

パリ・シテ島編③サント=シャペル

20 11月 2019
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息をのむ美しさの上層礼拝堂

先週は王室礼拝堂の木曜演奏会と、学生オーケストラによるパーセルの「妖精の女王」の演奏会がありました。木曜演奏会はヴェルサイユの研究センターの子供たちによる合唱とのアンサンブルで、シャルパンティエとモランによるプティ・モテのプログラム。今年はメンバーが入れ替わったのか、昨年いたびっくりするくらい上手い女の子たちがいなかったのが少し残念でしたが、それでも10歳くらいの少年少女が立派に独唱をやっている姿は素晴らしいの一言です。
学生オーケストラの方は今回はややリハーサルが少ないのが心配でしたが、パトリックの安定した指揮で無事1回目の本番が終了。今週と来月にあと3回本番があります。

さて今回からは先月書いたパリのシテ島編の続きとして、サント=シャペルとコンシェルジュリーについてご紹介します。
フランスに来てからというもの、今まで様々な宮殿や聖堂に行ってきましたが、何故かこの2つだけは今まで手付かずのままでした。何でもシテ島周辺はいつも観光客だらけで治安もあまり良くないし、いつでも行けると思っていたらノートルダム大聖堂の火災があってしばらく付近が封鎖されてしまうしで…でも今回、特にサント=シャペルは行って良かった、なぜもっと早く行かなかったのかと改めて思いましたね。
シテ島の歴史は非常に古く、紀元前から人が生活しておりその後ローマ人の征服により都市が発展するとこの地に宮殿と行政機関が置かれました。その後フランク王国となりシテ宮殿が建設され、シャルル5世がより安全な居城を求め移住してからは財務監督、裁判所、牢獄が置かれるようになりました。ちなみにこのシテ宮殿にはとても長い歴史と数多くの事件がありますので、ここでは省略いたします。
現在シテ宮殿の建物で現存しているのは今回紹介する2つで、これらはフランスに現存する最古の王宮施設になります。コンシェルジュリーが10世紀にカペー朝を開いたユーグ・カペーによって整備、サント=シャペルが13世紀に聖王ルイ9世によって建てられました。

どちらから行っても良いのですが、前回予告したのでまずはサント=シャペルから。
サント=シャペルは1248年に完成した聖堂で、最も重要な茨の冠の他キリストの受難に関する聖遺物を保管する聖堂として建設されました。ちなみに茨の冠はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇帝から購入したもので、その費用はシャペルの建設費用に匹敵したそうです。しかしそれは単なる王の物欲によるものではなく、これによってキリスト教世界でのパリの地位を一気に引き上げる意図がありました。現在、聖遺物はノートルダム大聖堂保管となっており、火災の際も無事運び出されたそうです。
聖堂にアクセスするには裁判所の門の横にあるパレ通りに面した入り口から入ります。裁判所に隣接する形で少し奥まった立地のため聖堂の姿を探しながら行くと少し迷ってしまうかもしれません。入り口付近には空港のような手荷物検査場があり、チケット売り場は聖堂の入り口にあります。
まずは外観を観察。とにかくステンドグラスの面積が大きいのと、トレーサリー(装飾的な枠組み)が極度に細いのが分かります。レヨナン式ゴシックと呼ばれる繊細な装飾が見所です。小ぶりでこれまた繊細な装飾を持つ尖塔はフランス革命時に破壊され、19世紀に再建されたもの。聖堂正面は特段凝った装飾があるというわけではありませんが、とても大きいバラ窓が目につく所でしょうか(この真価は内側から見たとき分かります)。入り口ではイエスを抱えたマリア像が出迎えてくれます。
この聖堂は上下2層に分かれており、上の礼拝堂が王や身分の高い者のため、下の礼拝堂が王家の使用人のための聖堂で、上の礼拝堂へはシテ宮殿から伸びる通路で直接行けるようになっていました。
まずは下の礼拝堂から見学。格下の礼拝堂とはいえ鮮やかな彩色が施されています(現在見られるのは19世紀の修復によるもの)。脇にある柱には青地に金のフランス王家の紋章と、もう一方は赤地に金で塔の紋章があしらってありますが、これはルイ9世の母の血統であるカスティーリャ王家の紋章だそうです。
その他奥の左手に13世紀のフレスコ画や、周辺から出土した壁の欠片なども置いてありますので上の礼拝堂に行くのを焦らずにチェックしてみてくださいね。
さて下の礼拝堂を見終わったら階段で上の礼拝堂へ。到達した瞬間、あまりの美しさに言葉を失うほどです。この日は雨で外から差し込む光は決して多くありませんでしたが、それでもとにかく聖堂内が光り輝いていました。もうこれは言葉で言い表せないので、是非実際に来て体感してみてください。キリスト教徒であればなおさらのこと、そうでなくても誰もが心洗われる空間だと思います。
正面から見て左から右に15のステンドグラスで、1113の聖書の場面が描かれています。詳しくはオーディオガイドを聞きながら見ると良いと思いますが、一番最初の創世記の場面などは何となくわかります。
ステンドグラスの間の柱の根本には12使徒の像が置かれていて、ペテロ像を始め幾つかは13世紀中頃のオリジナルとのこと。ステンドグラスを鑑賞して首が痛くなったら是非これらの像も見てください。
奥にはこの聖堂の主役である聖遺物を保管するための構造物があり、高壇の金の聖遺物箱の中にかつては保管されていました。ところでこの大きい壇があるために、中心にあって全ステンドグラス中最も重要な受難の場面が半分ほど見えないのですが..まあ実物の方が重要ですものね。
後ろを振り返ると先ほど外側から見た大きなバラ窓の真価が分かります。題材はヨハネの黙示録で、中央にキリストが描かれています。もっともこれは完成当初はなかったもので、15世紀に追加されたものだそうです。
こんなに素晴らしい聖堂も、フランス革命期にはただの事務所として使われ、せっかくのステンドグラスも整理棚が手前に置かれその魅力はすっかり忘れ去られていました。ただそのために破壊を免れ、今日こうして私たちが見ることができるのは数奇な運命ですね。

そんなわけで、パリに来たら絶対に!この聖堂へ足を運んでみてくださいね。
次回はコンシェルジュリー編をお送りします。

フランス南西への旅③バイヨンヌ、ポー編

13 11月 2019
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非常に高い天井を持つサント・マリー大聖堂

今週から今年度のオーケストラプロジェクトや王室礼拝堂の木曜演奏会が動き出しました。9月にこちらに帰ってきてほぼずっと一人で練習していたので、やはりオーケストラや合唱はいいなとつくづく思いながら弾いています。

さて今回はフランス南西への旅最終回、バイヨンヌとポー編です。
この日は祝日の11月1日でしたので博物館系は軒並み休館。滞在時間もあまり取れなかったのでざっと見るにとどめました。
バイヨンヌは古くから軍事的に重要な拠点となっていて、町は城壁と城塞、2つの川によって防御の構えを見せています。支流のニーヴ川を挟んでシャトー・ヴュー(古い城)がある方をグラン・バイヨンヌ、シャトー・ヌフがある方をプチ・バイヨンヌと呼びます。2つの城は古い方が11世紀、新しい方が13世紀と何れも古い城ですが、あくまでも防御のための要塞であって飾り気のない無骨な外観となっています。内部は双方とも公開していないようです。
グラン・バイヨンヌにあるサント・マリー大聖堂は見どころの多い聖堂です。13世紀から建築が始まったゴシック聖堂ですが、特筆すべきはその天井の高さ。掲載の写真で見ていただければお分かりの通り、何だか縦に引き伸ばしたように見えますが特に写真の加工はしていません。祭壇の後ろの各聖堂部分は他と打って変わって美しい彩色が施されていますが、あまりどぎつくなく繊細な感じに見て取れます。
外観は周囲に民家が建っていて中々きれいに全景写真が撮れないのですが、西正面は2つの鐘楼を備え、正面入り口部分が張り出した構造になっています。扉の周りには彫刻を削り取った跡が見られ、特に説明書きはありませんでしたが意図的に破壊されてしまったのだなと理解できました。入り口の左右には渦巻の形にデザインされた窓があります。こんな形は初めて見ましたね。南側には方形の大きな回廊があるのですが、祝日のためか入ることはできませんでした。
大聖堂から南へ住宅街を少し歩くと、「古い肉屋の塔」があります。ローマ時代の見張り塔を再利用したものだそうで、私はローマ遺跡がとても好きなので行ってみましたがただの円形の塔でした(笑)。
大聖堂周辺のグラン・バイヨンヌの家々は白い壁に色とりどりの柱が露出した古いもので、素朴でどこか懐かしいような印象を受けます。
最後にカズナーヴというショコラティエの喫茶コーナーで有名なショコラ・ムスー(泡立てココア)をいただきました。1854年の創業以来伝統的なチョコレートの製法を守り続けているそうで、ココアもやや苦みと酸味の強い独特な味でした。でもとても美味しかったですよ。
他にもプチ・バイヨンヌのニーヴ川沿いにはバスク地方の歴史や文化を紹介しているバスク博物館があるのですが、例によって休館でした。開いていたら是非入ってみたかったところです。

川越しに見ることができるポーの城

バイヨンヌからアンテルシテ(特急)に乗車し約一時間、最後の目的地ポーの街を目指します。乗車したアンテルシテは客車列車ではなく固定編成の電車列車でした。近郊電車だけでなく特急も客車から電車への転換が進んでいるのですね。
ポーはブルボン朝を創始したアンリ4世の生誕地で、ピレネー山脈を望む眺望が楽しめる街としても有名です。国鉄の駅は市街地より幾分低い土地にあり、駅前から無料で乗車できる緑の車体の可愛らしいケーブルカーがありますが行程上必要なかったので乗車しませんでした。ケーブルカーで行き着くことのできるピレネー大通りからはピレネー山脈を見ることができますが、天気が良くないとあまり綺麗に見えないのかもしれません。それでもとにかく山脈は遠くにあるので、雄大な景色というのではないのだと思います。
まずは散策がてら地図上でボーモン宮という建物を見つけたので行ってみましたが、1900年に建てられた冬の別荘だそうで、現在は集会等に使われているとのこと。バロック調で外観は美しいですが19世紀以降の建物ということでいつも通りスルー。
城にほど近いサン=マルタン教会と少し北方にあるサン=ジャック教会はいずれも古くからあった聖堂を取り壊して19世紀以降に再建されたものでした。
さてアンリ4世が生まれたという城、祝日のため休館だろうと思い最後に外観のみ見ようと思っていたのですが、行ってみると中から人が出てくるではありませんか。開館していたのか、ラッキー!と思い入館しようとしたらもうすぐ閉館すると言われてしまいました。ちゃんと確認すればよかった!!!残念。
まあそれでもフランス革命時に内部は荒らされ、ルイ=フィリップ王やナポレオン3世によって大規模な改築が行われてしまったのでアンリ4世時代を偲べるものは殆どないとのことですが。
少し時間があったので川越しに橋と城を見ることができる地点に行ってみましたが、うーん、夕方でかつ曇り空の景色は何だかちょっと今一つ。川霧が出ていたのは綺麗でしたけどね。

この後再び電車のアンテルシテで約3時間、乗り換えのためにトゥールーズへ行きました。次に乗る寝台特急との兼ね合いで1等車の切符を買いましたが、2等車の座席と大して変わりませんでした。ぼったくりやなこれ(笑)。
トゥールーズでは1時間乗り換え時間があったのであの美しい街並みをもう一度見たいと思い、市庁舎やサン=セルナン・バジリカ聖堂へ赴きました。昨年、フランス国内旅行で初めて訪れた街でしたが、個人的には未だに最も好きな街であり続けています。詳しくは過去の記事をご覧くださいね。
最後は寝台特急アンテルシテ・ド・ニュイに乗車。前回の2等車3段寝台は座るには少し辛かったので、今回は1等車2段寝台にしてみました。夜行列車は何度乗っても良いですね。

以上、全3回に渡ってフランス南西への旅をお届けしました。来週はついに!パリのサント=シャペルとコンシェルジュリーのレポートをお届けします。もう行ってきたので大丈夫です(笑)。

フランス南西への旅②ビアリッツ、サン=ジャン=ド=リュズ編

7 11月 2019
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大西洋に面した「処女の岩」

今回も前回に引き続き、フランス南西旅行のレポートです。
ボルドーから近郊列車TERに乗車し、大西洋沿いのリゾート地ビアリッツを目指します。
ビアリッツといえば今年の8月にG7主要国首脳会議があったことで一躍有名になりましたが、普段はゆったりとした時が流れるリゾート地です。気温も20度近くあり、終始コートを脱いで歩いていました。
国鉄の駅からバスに乗って20分ほど、バス停から歩いてまずは「処女の岩」を目指しました。途中の商店街などはまるで湘南のようで、海沿いの観光地はどこも似ているなと思いました。砂浜ではもう間もなく日が沈むというのに海水浴をしている人がちらほら。10月末ですが寒くないのでしょうか。
「処女の岩」は水族館のある岬から橋で渡った先にあり、マリア像があることからこの名がついています。まるで江の島のようですね。一面に広がる大西洋。大西洋は初めて見ました。
完全に暗くなる前にもう少し散策してみることに。「大浜辺La grande plage」には少し降りて歩いてみました。
ナポレオン三世の皇后ウジェニーの別荘を改装したホテル「オテル・デュ・パレ」に行ってみましたが、現在改装中とのこと。外観はルイ13世様式の建物ですが、それ以外は全く分からずじまい。
時間が余ったのでもう少し歩いて灯台まで行きましたが、海を見る他は特に何もありませんでした。
その後再びTERに乗ってサン=ジャン=ド=リュズヘ。この日は終了です。

ルイ14世の結婚式を見守った教会

翌日、ボルドーでの詰め込み観光が少し体に堪えたのか9時頃まで寝てしまい、ようやく行動開始。
ホテルには2泊するので極力荷を部屋に置いて、国鉄駅前からバスでラ・リューヌ山を目指します。といっても目的の大部分は山頂に登ることではなく、途中の登山鉄道に乗車すること。
1924年に開業したラ・リューヌ鉄道は今年95周年を迎え、その旨が宣伝されていました。古めかしい木製の機関車が麓側に着き、これまた木造で車体を軋ませながら走る客車2両を押し上げていきます。
ホームに入場が始まるとすかさず機関車に最も近い麓側の席を確保。え、何故かって?もちろん登坂で負荷がかかるモーターの唸りを聞きたいからです(笑)。
出発前に車両を観察してみましたが、どうも通常の線路に接する車輪には動力を伝えず、線路の間にあるラックレールと噛み合う歯車のみで坂を上っていくようです。乗務員は機関車と一番前の客車に乗り込みました。
いよいよ坂に挑みます。とても急な坂!日本にはケーブルカー以外にこんな急坂を行く鉄道はありません。見る見るうちに麓の駅が遠くなっていき、遠方にサン=ジャン=ド=リュズの街と大西洋が見えてきました。車内放送はフランス語、スペイン語、バスク語の三か国語で何か説明がありましたが、とにかくモーターの音がすごくてよく聞き取れませんでした(笑)。いいんですよ!私はこれで!
しばらくすると平坦線となり、崖と岩肌の間を抜ける模型のような線路を走っていきます。途中に対向列車と行き違いできる部分があり、みんな手を振って応えてくれました。やがて再び急勾配区間となり、山頂に到着。頂上はあいにく雲の中で景色は何も見えませんでしたが、晴れていればピレネー山脈や大西洋等が一望できるようです。
せっかくきたので晴れるかもしれないと一縷の望みをかけ、山頂の喫茶店でココアを飲んで一服しましたが結局晴れずじまい。少しだけ周辺を散策してみることにしました。といっても前述のウジェニー妃の記念碑と、放牧されている馬を見るくらいで、後はフランスとスペインの見えない国境を楽しみました。一応スペイン上陸を果たしたということで。
サン=ジャン=ド=リュズの町まで戻った後は2つ目の目的へ。それはルイ14世の足跡をたどることでした。
この小さな港町が歴史の表舞台に立ったのは1660年、若きフランス国王ルイ14世とスペインの王女マリー・テレーズの結婚式が行われたことでした。サン=ジャン=バティスト教会がその会場となりました。この教会は一部は15世紀の竣工ですが大部分は1649年に完成しましたが、装飾どころか開口部もあまりない質素な建築で規模もあまり大きくありません。実際問題として国王夫妻の結婚式を行うには参列者を迎えきれないため、木製の階上席が後方に5階、両側面に3階建てで設けられている風変わりな内部になっています。内陣の壁面は鮮やかに彩色され、祭壇の構造物は青を基調として葡萄、天使、生き物が巻き付くように装飾された円柱の間に聖人たちか配置されているという凝ったものになっています(ゴテゴテしているという方が正しいかも)。結婚式の際の絵の背景にもこの祭壇が描かれていますので、当時からあったものでしょう。祭壇に向かって右手の外壁には、かつて国王夫妻の通路としてのみ使用され、その後閉塞された部分が説明書きと共にあります。
教会から海に向かって少し歩くと、ルイ14世が結婚式に際してしばし滞在した館「ルイ14世の家」があります。建物が面している「ルイ14世広場」に木が植えられていて綺麗に写真を撮ることができないのですが、両角に張り出した部分を持つこの町ではやや凝った設計の建物です。内部見学は1日3回のツアーのみですので、訪れる際は必ずスケジュールをよくご確認ください。内部は応接間、寝室とそれなりに豪華ではありましたが、ヴェルサイユ宮殿を良く知っていると目を見張るような感動はあまりないかもしれません。ただルイ14世が若き日にここを訪れたのだなという思いには浸ることができました。
海沿いにもう少し歩いていくと煉瓦と砂岩でできた「王女の館」もありますが、こちらは地上階に一般の商店があり、観光用には開放していないようです。

次回は最終回、バイヨンヌとポー編をお送りします。