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駿太のこだわりクッキング① ペペロンチーノ

29 1月 2020
駿太のこだわりクッキング① ペペロンチーノ はコメントを受け付けていません

ニンニクの香ばしい匂いがたまらない

今週、パリ交通公団RATPの最大組合Unsaが無期限ストライキ終了を発表しました!!!パチパチ~。パリの交通機関や近郊電車はとりあえず通常運行に戻るようです。
結局政府からは年金制度改革についての譲歩は引き出せず、1か月超のストライキ中無給だった労働者がついに耐え切れなくなり折れた格好。一方でフランス国鉄SNCFの組合は譲歩を引き出すまで終了しないとなお強硬姿勢の様子。いつまでやるんですかねー。
ちなみに国鉄が運行しているはずのRERの一部やTransilienは通常運行ということです。

中国で発生した新型肺炎が現在猛威を振るっていますね。フランスではヨーロッパで初めて感染者が確認され、現在は3人となっているようです。旧正月の春節を迎え日頃に増して中国人旅行者が増える中、ヴェルサイユは日頃から中国人ばかりなので増えているのか減っているのか良く分かりませんがとりあえず彼らはたくさんいます(笑)。演奏会の際以外はなるべく宮殿には行かないようにしようと思っています。
厚生省がマスクの着用を推奨しているので私も先週からマスクを着用し始めました。ところが街中はおろか、宮殿でもマスクをしている人はほぼ中国人(に見えるアジア系の人)だけです。せめて宮殿のスタッフくらいは着用したらどうかと思うのですが、私が見た限りではスタッフは1人しかマスクをしていませんでした。フランスではマスクの着用が一般的ではなく、マスクをして街中を歩くと何かの重篤患者かと思われて変な目で見られるという話を聞いたことがありましたが、実際着用して出かけてみると挨拶がなかったり周囲の人が離れて行ったりと、やはり反応が違いますね。厚生省にはもっと強く着用を勧めてもらいたいものです。パリやヴェルサイユにはあれだけの中国人が来るのですから、中国に渡航歴のない感染者が出るのももう時間の問題かと思います…。
状況が変わりましたらまた随時発信していきます。

さて、今回は「駿太のこだわりクッキング」ということで、第1回目はペペロンチーノを紹介します。
日本での学生時代は小中学校の調理実習くらいで料理はまったくやっていませんでしたが、留学生活をするにあたり自炊する練習をしようということで母から手ほどきを受けて一昨年の4月あたりから少しずつ佐藤家の食卓を担当するようになり、最後の7月あたりには殆どの夕食を私が作るようになっていました。
最初は幼い頃から食べてきた母のレシピに基づく料理を作っていましたが、次第にクックパッドなどを参照しながら新たな料理を作るようになりました。今まで料理は面倒なものだと思っていましたが、やってみるとこれがとても楽しいんですね。選んで買ってきた食材がだんだん自分のイメージに近づいてくる過程、加熱や調味料のさじ加減1つで味が変わってしまう奥深さ。私の師匠たちを始め良い音楽家は大抵料理が上手である理由は、料理が音楽と似ているからなのだなと思いました。
さてそんな中ヴェルサイユに来て数か月経った頃でしょうか、大分フランスで安くて美味しい食材が分かってきたところで私には食べたいパスタがありました。ペペロンチーノです。ちょうど知り合いから譲ってもらった鷹の爪もあって、クックパッドを見ながら早速作ってみました。しかしできたのはイメージとはかけ離れたイマイチな代物。ニンニクの味わいもないし、なんだか水っぽいし、もう全然だめでしたね。そこから数週間というもの、どうにかイメージに近いペペロンチーノができないものかと作り続けました。最盛期には週4回くらい作っていましたね。その頃通っていた語学学校にイタリアンシェフの友人がいたので上手くいかない点を相談したりもしました。彼女曰く「シンプルなだけにはっきり料理の腕が出る難しい料理」だそうです。
あと上手くいかない原因はフランス特有の簡易キッチンにもあり、我が家にはコンロはなく旧式の電熱調理器が大小1つずつあるのみです。当然ながら電熱調理器は火のように急に点けたり消したりできないので、タイミングを誤るともうどうにもなりません。この点もかなり考えて、それでも何とか調理器1つのみで上手く調理する方法を編み出しました。
プロは「ソースの出来上がりをパスタの茹で上がりにぴったり合わせる」そうですが、私は調理器の問題もあり先にソースを作っておいて途中で中断し、その間にパスタを茹でて再度加熱する方法を採っています。
長くなりましたが、以下レシピです。

・材料(1人前)
ニンニク 大きければ1かけ、小さければ2かけ
鷹の爪(乾燥唐辛子)3/4 ※大きさにもよりますが1本だと辛すぎることが多いです
オリーブオイル 大さじ2.5(約40ML)程度
パスタ 120g
粉塩 湯1Lあたり大さじ1
黒胡椒 少量

・作り方
①ニンニクを半分に切って芯を取り、縦に2つ切り込みを入れた後スライスする。
②ポットでパスタを茹でるための湯を沸かし、鍋に塩を入れておく。
③フライパンにオリーブオイルとニンニクを入れ中火(我が家の電熱調理器では火力6段階で4)にかける。
※ネット上の多くのレシピには「とにかく弱火で!」と書いてあることが多いですが、試した結果中火程度でも良いと思います。ただし⑤のタイミングはシビアになります。
④ニンニクの周りが泡立ってきたら鷹の爪のヘタと種を取り、調理ばさみで輪切りにして入れる。唐辛子が太い場合は縦に切ってから輪切りする。電熱調理器の場合はこの後パスタを茹でるために最大出力へ上げる。
※唐辛子は焦げると苦くなるので注意が必要ですが、あまりに投入が遅いとオイルに辛味が移らないので注意が必要です。

オリーブオイルにニンニク、唐辛子を入れた状態

⑤ニンニクの縁が1つでも茶色くなったら(慣れてきたらその直前を見極めて)引き上げ、湯を注いだ鍋を代わりに強火にかける。
⑥塩が完全に溶け切るように菜箸で混ぜ、パスタを投入する。タイマーは指定分数分セット。
⑦茹で時間が残り2分になったら鍋を引き上げて残り時間は余熱で茹で、代わりにフライパンをやや強火にかける(電熱調理器の場合はここから次第に弱くなっていくよう1段階落とす)。この段階で余熱によりニンニクが少し色づいている程度であれば成功、完全にフライになってしまっているようなら⑤のタイミングを早くする。

乳化が完了した状態、今回の出来は70点というところか

⑧フライパンが熱を帯びてきて、ニンニクが少し泡立ち始めたらオリーブオイルと同量かやや少ない程度のゆで汁を、フライパンをゆすりながら少しずつ入れて乳化させていく。最初にゆで汁を入れたときに油が少し跳ね、ゆすった時にシャーという音がするくらいまでフライパンを熱すると成功しやすい。オイルがゆで汁と良く混じり、白濁すれば成功。ゆで汁がオイルより多いと確実に失敗する。
⑨乳化が完了する頃合で茹で時間を迎えるので、湯切りをしてフライパンに投入する。
⑩火を止め、菜箸で手早く混ぜ合わせさらに乳化を促進させた後、器に盛る。器はやや深さのあるものを選ぶとよい。
⑪黒胡椒を表面にうっすらとかけて完成。かけ過ぎると味が大きく変わってしまうので最後まで気を抜かないように。

味のイメージとしては食べた時に塩、ニンニク、唐辛子、オイルのそれぞれの要素が強く拮抗している状態が理想です。全体的にそれぞれの
主張が弱かったり、ある要素が突出してしまったりしていたら改善の余地ありと言えるでしょう。
あとできれば食べ終わった後、器にあまりオイルが残らない程度にオイルとゆで汁の量を調整できるとなお良いと思います。
特に乳化の工程は難しいので、納得のいくものができるまで何度も作ってみましょう。なおこのレシピではニンニクと唐辛子はそのまま具になっていますが、途中で取り出す方法もありますのでそこの辺りはお好みで。
基本がしっかりとできてしまえば、その後でトッピングを入れたりアレンジを加えても良いと思います。私は目下キャベツ入りのアレンジを研究中です。

ちなみに私は代謝が非常に良くて少し唐辛子を食べると大量に汗をかくので、食べた後はすかさずシャワーを浴びなければならなくなります(笑)。汗をかかないように唐辛子を減らしたこともありましたが、それだとやはりあまり上手くいきません。余談でした。

今回は駿太のこだわりクッキング第1回でした。レシピを文章で書くのは初めてなのですが上手く伝わっているでしょうか。
次回は趣向を変えて、最近社会のあることについて思う独り言を書いてみます。興味があれば読んでみてください。

古楽科オープンキャンパス

22 1月 2020
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午前中は様々な科の公開授業が行われました

先週と今週は演奏会続きです。土曜日には今日特集する古楽科オープンキャンパス、月曜日には校内の室内楽演奏会、明日は王室礼拝堂での木曜演奏会です。室内楽演奏会ではテレマンのいわゆる「パリ四重奏」の第6番ホ短調を演奏しました。名の知れた名曲ですが今回は学部生の試験も兼ねているため他のグループも多く、全ての楽章をやる代わりに繰り返しは全カット。繰り返しをカットして演奏するってどうしても抵抗あるんですよね。時間の都合なら楽章をカットして代わりに繰り返しはしっかりやるべきだといつも思います。
私たち以外のグループは今年入ったポーランド人の女の子が一手に引き受けていて、何だか嘱託伴奏員のようでした(笑)。後述しますが土曜日のオープンキャンパスでは自分の協奏曲もあったのにその上よくがんばるなと思いました。それにしても他のチェンバロ科はどこに行ったのでしょう…?

さて、今回は先週土曜日に開かれた古楽科オープンキャンパスの模様をお伝えします。
10月にお伝えしたオープンキャンパスはモダン科も演奏していましたが、今回は古楽科だけのオープンキャンパス。それだけ大所帯ということですね。
ちなみに先日も書きましたが、このオープンキャンパス内の演奏会では今年入学した研究科の学生が1人ずつ協奏曲を披露し、一応形だけの中間試験を受けます。今回はヴァイオリン2人がそれぞれヴィヴァルディの協奏曲、リコーダー1人がテレマンの室内協奏曲、そして前述したポーランド人のチェンバロの女の子がJ.S.バッハのチェンバロ協奏曲BWV1057を弾きました。そうです、あのブランデンブルク協奏曲第4番のチェンバロ版です。オケパートのヴァイオリンは私とパトリックが全て担当しました。
オープンキャンパスの午前中は公開授業となっていて、私たちの午後に向けたリハーサルも公開となりました。私含め生徒たちはいつもの癖でそこかしこの椅子に荷物やら楽器ケースやらを置いてしまっていたので、お客様が増えてくると片づける羽目に…。
リハーサルをしていたのであまり行けませんでしたが、他の部屋でも並行して室内楽や専攻のレッスンが公開で行われていました。休憩の合間を縫って私も少しだけ他専攻のレッスンにお邪魔。こういう機会はなかなかないですものね。
そんなこんなでしっかり昼食をとる暇もなく午後の本番が始まりました。ヴァイオリンの2人はアマチュアなのであまり期待はしていませんでしたが無難にまとめてきてくれました。リコーダーの子とはリハーサルが少ない中で先週の1回のレッスンで細かい指導があったため上出来。トリはチェンバロ協奏曲、あの速くて難しいパッセージ共々素晴らしい演奏を披露してくれました!一方で残念だったのは我々オーケストラ。前日までのリハーサルはたった2回でこの曲をやるにはただでさえ少ないのに、リコーダーとヴィオラ奏者が交代となって本番のメンバーがそろったのは当日だけという始末。あれだけソリストが仕上げてきてくれるなら我々ももう少し準備したかったです。

さて私たちの本番が終わってしばらくすると、金管やオーボエのアンサンブルとより音の小さな室内楽の演奏会が並行して開催されたので私は金管やオーボエのアンサンブルを聴きに行ってみました。ナチュラルトランペット、サックバット(トロンボーンの古楽器)、オーボエがそれぞれバンドを組んでルネサンスからバロックまで様々な曲を披露しました。オーボエはオーケストラによく顔を出すので顔見知りも結構いるのですが、金管の学生ってこんなにいたんだなと初めて知りました(笑)。あとトランペットバンドはもう少し大きな場所で聴きたかったですね。学校の中庭とか。
夜にはもう一つ、ヴィオラ・ダ・ガンバや撥弦楽器主体の室内楽の演奏会がありました。私は午後の本番で疲れが出て、開始まで家で仮眠をとるつもりが本格的に寝てしまい行くことができませんでした…。

日本にはない、専攻も豊富な大所帯の古楽科ならではのオープンキャンパスといった感じでした。これを機に他科とも積極的に交流を図っていきたいなと思いました(もう半年くらいしかありませんが)。

次回は新シリーズ、駿太のこだわりクッキング第1弾です。

モン・サン=ミシェルへの旅(後編)モン・サン=ミシェル

15 1月 2020
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夕暮れのモン・サン=ミシェル

今週は土曜日に行われるオープンキャンパスの演奏会準備で大忙しです。今年から研究科(perfectionnement)に入った学生が挙ってコンチェルトを弾くので、数少ないヴァイオリンの学生はフル稼働。昨年一年目だった私は王室礼拝堂で演奏できましたが、今年はそういった機会はなく全員音楽院で演奏するようです。去年入った私は運が良かったのですね。

さて今回は前回の続き、モン・サン=ミシェルについてです。
高速道路を下りて田舎道を走っていくと、海が見えると同時に遠くにあの有名なモン・サン=ミシェルが見えました(私は運転していたので正面に見えた時しか見ませんでしたが)。両親も話していましたが天空の城ラピュタのようですね。遠くから見ても存在感があります。
モン・サン=ミシェル周辺は一般車の通行が禁止されているので、最後までモン・サン=ミシェルを目標地としてカーナビに従ってしまうと通行禁止の道に行ってしまいます。車で行く際は駐車場を目標にしたほうが良いですね。
さて駐車場に車を停め、看板に従って行くと木目調の側面が特徴的なナヴェットと呼ばれる往復バスでモン・サン=ミシェルの麓まで行くことができます。鉄道車両のように両運転台になっているのは折り返すのに便利だからだと思いますが、車内は輸送需要に対してあまり広いとは言えず超満員。景色を楽しみたいなら一本見送って着席した方が良いかもしれません。途中ホテルやレストランにアクセスできる停留所にも止まるので、長く滞在するにも便利ですね。
まずは全景を観察。砂浜と海に面した下層は荒々しい岩肌と堅牢な城壁に守られた市街地、上層は修道院と付属教会になっています。イギリスとの百年戦争時には要塞としての機能を果たし、陥落せず持ちこたえた堅固さが容易に見て取れます。ちなみに厳島神社とコラボして夏頃に設置されていた鳥居は既に撤去済みでした。どこにあったのでしょうかね。
門をくぐって中に入っていくとまずはお土産売り場やカフェ、歴史展示館や秘宝館が並ぶ市街地部分を通ります。まるで江の島のようです。監獄時代のモン・サン=ミシェルを詳しく知りたい方はこうした史料館に入ってみるのも良いかもしれませんが別途入館料がかかります。少し進むと左手にサン=ピエール教区教会があります。私たちは帰り際に寄ってみましたが、素朴で可愛らしい内装の聖堂でした。
やがて無骨な城塞のような修道院の建物が眼前に迫ってきます。階段も多少上りますが特別辛いというほどではありませんでした。例のごとく金属探知チェックがあった後、縦に長い「司祭の間」でチケットの購入やオーディオガイドを借りることができます。この「司祭の間」についての説明書きやオーディオガイドの説明は見学の一番最後にあります。
チケットを提示して見学を始めるとまずは付属教会と修道僧居住棟の間を進む大階段があります。最初から中世の雰囲気満点ですね。海岸を上がりきって「西のテラス」に出ると、大西洋と周りの陸地を一望することができます。修道院と教会の建設に使った石材はここから見ることのできる小島から運んできたのだとか。
教会の西側ファサードはこの部分が火災に遭った後1780年に再建されたもので、かつてのファサード部分は手前の階段と礎石にその名残を見ることができます(こういうネタは個人的にとても好き)。1010年に完成した聖堂の内部は身廊がロマネスク様式で天井は板張り、内陣は1421年に崩壊してしまったため再建されゴシック様式になっていますが、全体的にあまり飾り気がなく素朴な印象を受けました。
順路を進んで行くと有名な「ラ・メルヴェイユ(驚異)」と呼ばれる13世紀に建てられた北側の棟に入ります。なぜ驚異と呼ばれるかというと、この建物は付属教会と違い岩山の上に建てられているのではなく、地盤が遥か下層にありその上に3階建てになっており、なおかつそれが周囲の施設と絶妙に接続されているからです。基本的に建築には石材が用いられるため、これを実現するには高度な強度計算と設計、建築技術が求められることでしょう。一つ一つ部屋を見てしまうと全体像を把握するのはなかなか難しいと思いますが、パンフレットなどにある各階層の図を見るとそれが良く分かります。

美しい回廊

順路上最初に行くこの棟の施設はとりわけ有名な「回廊」で、2列の柱が修道僧の歩幅に合わせて交互に配置されている静謐で美しい空間です。天井には下層への負担軽減のため木材が使用されています。
次は「合同の食事室」ですが、側面の開口部が斜めに開けられており入り口からは見えないようになっているのが何とも見事です。
階下の「迎賓の間」は巡礼に訪れた国王や貴族を迎えるための場所で、天上のヴォールト架構がやや華やかな印象を与えてくれます。
「柱の礼拝堂」は先ほど見学した付属教会の内陣部分の階下にあたります。聖堂は大部分が岩石の上に直接建てられていますが、内陣部分はこの空間によって支えられています。巨木のような太い柱がいくつもあるだけの空間で、この場所で礼拝をおこなうことはなかったようです。
ここから付属教会を挟んで南側へ進むことになります。「聖マルタン礼拝堂」は付属教会の交差廊(内陣の手前の横に長い部分)の正面から見て右側部分の階下にあたります。開口部や装飾はほとんどありませんが、高い天井や窓の開口の仕方に中世建築の技術の粋を見ることができるでしょう。
続いては修道僧の納骨堂。今日では納骨堂としての姿を認めることは難しく、代わりに1820年頃に設置された貨物エレベーターの複製が目を引きます。巨大な車輪の中で収監された政治犯がハムスターよろしく歩き、その動力で下層から荷物を引き上げていたのです。
納骨される死者を弔うための「聖エティエンヌのチャペル」、西側のテラスの階下に位置する「南北階段」を通ると、「修道僧の遊歩場」という空間に着きます。この空間の用途は良く分かっていないそうで、比較的低い天井を持つ縦に長い空間が続きます。
「騎士の間」は「回廊」の階下にあり、修道僧たちが写本を作るなどの仕事場として用いていました。「修道僧の遊歩場」とは一転して天井の高い開放的な空間です。
最後に「司祭の間」へ戻り、土産物売り場を見て終了です。本当はテラスに行けるようですが、16時半で閉まってしまい行くことができませんでした。
17時を過ぎるとちょうど夕暮れ時となり、ライトアップされて美しい島の姿を見ることができました。

さて再び車を運転してカーンへ戻ります。日本のようにガソリン満タンで返却するのですが、ガソリンスタンドのシステムが良く分からない…。説明を読むと、まず建物の中にいる店員にこれからガソリンを入れる旨を告げて、入れ終わったらまた店内で清算するという手順のよう。なんて手間のかかる方式なんでしょう。
その後はカーンの市街地で迷ってしまいあわや列車を逃すかというところでしたが、何とか返却の駐車場にたどり着き列車に乗ることができました。フランスのカーナビって使いづらいです…。と思って携帯でグーグルマップのナビを見ながら行ったらおかしなことになりました(笑)。

次回は今週のオープンキャンパスの様子をお伝えしたいと思います。

モン・サン=ミシェルへの旅(前編)オマハ・ビーチ

8 1月 2020
モン・サン=ミシェルへの旅(前編)オマハ・ビーチ はコメントを受け付けていません

オマハ・ビーチのモニュメント

皆さま、明けましておめでとうございます。今年はカレンダー上都合がよく年末年始の休暇が長かった方も多いのではないでしょうか。
フランスでは相変わらず国鉄とパリ交通公団のストライキが続いていて、音楽院の夜の授業はパリに帰る人のために早く切り上げられたり、校内演奏会が延期になったりと身の回りでは少なからず影響があります。このストライキが始まってからもう一か月、RERのC線を始め全く列車を運行していない区間が数多くありますが一体いつになったら終わるのでしょう。

さてそんな中、フランスに来た両親と共に年末は色々なところに行きました。その中から今回はノルマンディー地方とモン・サン=ミシェルに行った話をご紹介したいと思います。
モン・サン=ミシェルに行こうとすると列車で行く、レンタカーで行く、バスやバスツアーで行くなど色々な手段がありますが、休暇中は列車やバスの値段が高く3人ではコストがかさむので、色々検討した結果ノルマンディー地方のカーンまで列車で行ってそこからレンタカーで行くことにしました。
ちなみになぜヴェルサイユからレンタカーで行かないのかというと、フランスのレンタカー料金体系は日本と少し違って、基本料金は一日単位で30-40€と安いのですがある一定距離(250kmなど)走るとそこから1kmあたりの追加料金が加算され、長距離を走るにはもの凄く高額になってしまうプランが大半なのです。フランスでレンタカーを借りる際はしっかり説明を読むことをお勧めします…。
そのような訳なので、一人往復20€弱と割と安く列車の切符が取れるカーンまでまずは行く…のですが、ここにもストライキが立ちはだかりました。前日になって予約していた列車が往復とも運休になると分かり、慌てて他の運転する列車を予約。差額分は払い戻されるという説明書きがあったので良かったですが、混雑して予約できなかったら旅行がキャンセルになってしまうところでした。メールでの通知も来ず国鉄のサイトで確認しなければならず、長距離列車を多用する方はストライキ期間中さぞ大変だろうなと思います。
カーンに着き、予約していた駅前のレンタカー窓口で手続きをします。今回利用したのはAVISという会社で、フランスでは大手の一つでフランス国鉄と提携しており、列車と一緒に予約すると特別料金が適用されたりします。初めてなので手続きが上手くできるかどうか少し心配でしたが、少し説明と書類にサインをするだけで簡単に借りることができました。一方で残念だったのは車種。予約する時に画面に表示されていたのはFIATの500で、私は一度この小さくてかわいい車を運転してみたかったのですが渡された鍵はPeugeot。「FIATじゃないんですかー?」と店員のお姉さんに言ってみましたが「Peugeotの方が広くて良いでしょ」と笑顔で言われてしまいました(笑)。事前に3人で乗ることを申告していたわけではなかったので単に配車の都合でしょうね。というかそもそもFIAT500相当クラスの予約というだけでFIAT500が指定されているのではなかったのだと思います。
そんなこんなでやや広めのPeugeot(残念過ぎて車種も覚えていません)で発進。事前に一応フランスの交通法規は勉強しましたがいざ走ってみると意味不明な標識や信号機があったりで特にカーンの市街地は中々スリリング。パリじゃなくて良かった…。
ちなみに私の運転免許証はどうなっているのかというと、学生は制度上フランスの運転免許証に切り替えができないので、在仏日本大使館で用意してもらった翻訳書類と日本の運転免許証で運転しました。国際免許証でも良いのですが日本にいた時はフランスで運転するつもりはなかったので申請していませんでした。
カーンの市街地を出て、直接モン・サン=ミシェルに向かっても良いのですがせっかくなので少し寄り道。今回カーンを起点にしたのは、昨年オーケストラの仕事で来た際に行くことができなかった第二次世界大戦の激戦、ノルマンディー上陸作戦が行われた浜辺に立ち寄るためでもありました。特に近代史や軍事のマニアというわけではありませんが、歴史を知る上で一度訪れておこうと思ったのです。
連合軍による上陸作戦が行われたノルマンディーの浜辺はいくつもありますが、今回は米軍の上陸地点で有名なオマハ・ビーチに行ってみました。高速道路を下りてしばらく田舎道を走ると、海岸沿いに建つコンクリート製の碑の近くに駐車場を見つけたので車を停めました。
のどかで人気のない静かな浜辺、コンクリート製の碑の裏側には写真のように現代アートのようなモニュメントがありました。これは何を現しているのでしょう…?この地に倒れた兵士たちの魂が昇っていく様でしょうか。周りを見渡してみると、海から陸地に到達するまで浜辺の距離がかなりあり、遮蔽物のない中で丘にあるドイツ軍の陣地から放たれる銃弾をかいくぐって突撃するのはかなり困難であったことが容易に想像できました。しばし黙祷。
近くにいくつかある戦争博物館は全て冬季休業のため入ることができず、あまり時間もなかったので近くのレストランで昼食をとった後本来の目的地モン・サン=ミシェルを目指すことにしました。このレストランもこんな過去がなければ外部から客など来なかったのかもしれませんが、特に夏季は当時を偲ぶ観光客や戦没者遺族が集まって繁盛するのかなと思いました。

次回はいよいよモン・サン=ミシェルのレポートです。