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ヴェルサイユの球戯場と室内楽演奏会

26 6月 2019
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たくさんのヴェルサイユ市民に来場していただきました

今週は毎日30℃を超え、非冷房の家に長時間いるのはかなり厳しいです。それだけでなく湿度も60-70%あるので昨年到着した時よりも暑さを感じます。帰国まであと20日あまり、何とか耐え凌ごうと思います。
先週の金曜日はリュリの「町人貴族」を王室歌劇場で観てきました。通常のオペラ公演だと字幕がフランス語と英語の両方出るのですが、今回は語りの部分が多いためか英語の字幕のみ。私はフランス語の方が得意なので一生懸命聞きとろうとしますが、何せ喜劇なのでまくし立てて話すことが多くなかなか付いていけず…。一応話の流れは覚えていますが笑うべきポイントで笑えないのは悲しいですね。来年も違う団体が「町人貴族」をやるみたいなので、もう少し理解できるように精進しようと思います。

今回はヴェルサイユの球戯場で先週行われた室内楽演奏会の模様についてお伝えします。
まずヴェルサイユの球戯場(サル・デュ・ジュ・ド・ポームLa salle du Jeu de paume)はサン=ルイ地区、ヴェルサイユ地方音楽院の近くに位置しています。「ジュ・ド・ポーム(単にポームとも)」は今日のテニスの元となった競技で、直訳すると掌遊びという意味です。これは昔ラケットを使用するようになるまでは掌で直接ボールを打っていたことに由来します。16世紀以降フランスの貴族の間でこの競技は流行し、宮殿や貴族の城館に盛んに併設されました。ヴェルサイユ宮殿に併設された球戯場は元は宮殿の南側、現在のグラン・コマンがある場所にありましたがこの建物の建設により撤去され、1686年に現在の球戯場が完成した後は王族を始め宮廷人の間で親しまれました。
それだけではただの屋内テニスコート場なのですが、この球戯場がフランス史の表舞台に立つ日がやってきます。1789年6月20日、前日夜に自らの議会場を強制閉鎖された第三身分(平民)を始めとする国民議会の議員たちはこの球戯場に集結し、王国の憲法が制定されるまでは決して解散しないことを宣言しました。これがフランス革命の一連の事件の中でも有名な「球戯場の誓い」です。ちなみにこの時点ではまだ立憲君主制を目指しており、後に国王と王妃を処刑することになるとは誰も考えていませんでした。
こうしてフランス革命期の事件の舞台となったことでこの建物は国有化され、その後1883年に革命博物館として整備されました。今日見ることのできるジャン=シルヴァン・バイイの像とその周りにあるオブジェ、議員たちの胸像や壁面の文字はこの時のものです。
この博物館は入場無料で気軽に入ることができるので、ヴェルサイユを訪れた際は是非お立ち寄りすることをお勧めします。内部はテニスコートにバイイの像や議員たちの胸像、ショーケースに議員たちの宣誓署名書、ジュ・ド・ポームのボールやラケット等が展示され、かつて試合の観客席であった部分の壁面には当時の風刺画や革命の各事件の銅版画、「ラ・マルセイエーズ」の当時の楽譜の複製などを見ることができます。北側の壁には『球戯場の誓い』の壁画があり、当時の様子を偲ぶことができます。

さて、このフランス革命の舞台で先週、「球戯場の誓い」が行われたのと同じ6月20日にヴェルサイユ地方音楽院の室内楽発表会が行われました。毎年学期末の発表会はここで行われるのが通例のようで、先週紹介した「モリエール月間」とも提携しています。舞台は北側の壁画を背にして設置され、コートには観客のための椅子が並べられました。室内楽の授業のチームの他にハープ科の2人も参加し、ソナタと協奏曲を共演しました。クラシック弓を師匠パトリックから貸してもらい、久しぶりに古典派の音楽を演奏する機会となりました。その他4つのプログラムも3つに参加、蓋を開ければほぼ全てに出場していました。
この会場はテニスコートであり音響は特に考えられていないと思いますが、天井が高いこともあり響きがとても良いのです。ただ採光窓が多く日中のリハーサル時は日光が強く差し込み、時々楽譜が眩しくて見えなかったりチェンバロやハープの調律には少し不具合でした。それも19時からの本番では解消され、多くのヴェルサイユ市民に囲まれながら無事学期末の発表会は終わりました。
終演後は近くのヴェルサイユ地方音楽院の庭園で一部観客を交えたパーティーが行われ、その後も自主的な2次会を仲間と楽しみながら夜は更けていきました。

ヴェルサイユ地方音楽院の1年目はこれで終了です。素晴らしい講師陣や校舎、ヴェルサイユ宮殿や研究センターとのプロジェクトに参加することができ大満足の1年でした。来年度もまた興味深いプロジェクトがありそうなので、このブログでご紹介できればと思います。
来週はアルルの衣装祭りについてお送りします。

ヴェルサイユのモリエール月間

19 6月 2019
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6月のヴェルサイユでは、この広告を目にしない日はありません

年度末ということで、私の所属するヴェルサイユ地方音楽院はもちろんのこと、ヴェルサイユバロック音楽研究センター、パリ地方音楽院に所属する学生仲間の修了試験で先週頃から忙しくなってきたこの頃です。
年度末の試験事情は日本も大体同じですが、フランスの学生たちはどうもアンサンブルのオーガナイズが遅い、緩い傾向にあります。2週間前になってから依頼してきてそこから日程調整したり、楽譜や担当パートに関する情報が今一つ不明瞭だったり、引き受ける方は何とも苦労が絶えません…。試験はそれぞれ今週、来週辺りに集中していて、今週は室内楽の授業の発表演奏会も控えているのでオーガナイズが遅かったグループはどうしてもリハーサルが少なくメンバーの出席率も良くないため、中には立ち消えするものもあったり。来年は私も修了試験があるので、オーガナイズには気を付けよう…。
さてこれらヴェルサイユ地方音楽院、及び研究センターの公開修了試験は今週のテーマであるモリエール月間と連動していて、公演一覧に記載されています。
まずモリエールとは誰かというところからお話しすると、彼は17世紀にフランスで一世を風靡した喜劇作家であり、コルネイユやラシーヌとも並ぶフランス古典主義作家です。医者や教会、宮廷事情の鋭い風刺劇でパリの観衆から高い人気を得た他、ルイ14世にも寵愛されリュリと共に「町人貴族」を始めとしたコメディー・バレを制作していました。
そんな彼の名前を冠したモリエール月間(Le Mois Molière)は1996年から開始され、今年で24回目を迎えます。毎年6月に一か月間、ヴェルサイユの様々な施設でプロ・アマチュア団体による劇、演奏会、舞踏、サーカス、展覧会や講演会が催されます。公演内容はモリエールや17世紀に限ったものではなく、その公演の多さたるや日本の音楽祭など遠く及ばないほどで、文字通り1か月間毎日、何かしらの公演が複数行われています。一部は予約制、入場料を取る公演もありますが大半は入場自由で無料、ヴェルサイユ市民にも大いに親しまれているようです。今月の街の広告表示はほとんどがこの赤いモリエール月間の広告で、多くの商店の窓にもポスターが貼られています。
今年私が関わったものとしては王室礼拝堂木曜演奏会でのカンプラのレクイエム、大厩舎での国王の24のヴィオロン、ヴェルサイユバロック音楽研究センターの試験の1つ(モリエールのプログラム)、今週近所の球戯場で行われる室内楽授業の発表演奏会がありました。大厩舎や球戯場など、普段はあまり演奏では使用しない歴史ある空間で演奏することができるのもこのイベントの力でしょう。
しかし残念ながら観客としてはあまり多くの公演には行けず、肝心のモリエール作品上演にはついに行くことができませんでした。今週金曜日に王室歌劇場で「町人貴族」を観ますが、劇作品の鑑賞はまた来年のお楽しみということにします。
先週は研究センターの歌手の1人が修了試験として、市庁舎の大広間でカンタータ・フランセーズの演奏を行っていましたが、17世紀の朗誦法やジェスチャーを再現していてとても素晴らしかったです。しかしこれはフランスの聴衆がいて、しかもヴェルサイユのあの空間だからこそ演者・聴衆共にあれほどまでに白熱したのだと思うと、今後私はどう演奏活動を行っていけば良いかを大いに考えさせられました。

ヴェルサイユ宮殿の庭園の散策にも良い季節ですので、来年フランスへ旅行を考えている方は是非6月にヴェルサイユに来て、モリエール月間を楽しんでみてはいかがでしょうか。
来週はヴェルサイユの球戯場とそこでの室内楽演奏会についてお伝えしようと思います。

マントノン夫人展とマリー・レクザンスカ趣味展

12 6月 2019
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現在開催されている2人の女性に関する特設展

相変わらず涼しい日が続いています。一時期暑くなって冬用の布団や服を物置に移動しましたが、一部をもう一度持って来なくてはならなくなりました。まあ暑いよりは快適で良いですね(何度も書きます)。
先週は木曜演奏会でカンプラのレクイエム、大厩舎で「平和の田園詩」の本番がありました。どちらもヴェルサイユ音楽研究センターと密接に連携した内容、会場共に素晴らしいプロジェクトでした。今年の大きな演奏会はこれで終わりましたがとても良い経験を1年目でできたなと思っています。

さて今回は現在ヴェルサイユ宮殿で開かれている2つの特設展、マントノン夫人展とマリー・レクザンスカ趣味展についてお伝えします。
今年で没後300年になることを記念した「マントノン夫人展~権力への道の中で~」は王のアパルトマンの向かいに設けられたマントノン夫人のアパルトマンで開かれています。
ここでマントノン夫人について簡単に触れておくと、まず彼女の本名はフランソワーズ・ドービニェといい、幼少期はカリブ海の植民地マルティーク島で過ごしました。開拓には成功せず一家は貧しいままフランス本土へ帰国、間もなく両親がなくなり25歳年上の喜劇作家ポール・スカロンと出会い結婚、妻としてだけではなくリウマチで身体が不自由だったスカロンの看護師も務めました。夫の文芸サロンでモンテスパン侯爵夫人と出会い、まもなく彼女がルイ14世の愛人となって子供を設けると、フランソワーズは夫人から子供たちの養育係に任命されました。出産しただけでその後の母としての務めは果たさなかったモンテスパン侯爵夫人に代わって献身的に子供たちを養育するフランソワーズは王の目に留まり、多額の年金を与えたことで彼女はマントノンの所領と城を購入し、マントノン侯爵夫人と呼ばれるようになりました。国王の寵愛の衰えを感じていたモンテスパン侯爵夫人は彼女へも嫉妬の矛先を向けますが、やがてモンテスパン夫人は黒ミサ事件により宮廷を去り、マントノン侯爵夫人はルイ14世の寵愛を得るようになります。1685年末、既に王妃がなくなっていたためルイ14世とマントノン侯爵夫人は密かに結婚、ヴェルサイユ宮殿に今日あるアパルトマンを与えられました。大貴族の出身でもない彼女が国王のアパルトマンの近くに居を構えたことは宮廷内に衝撃を与えました。それからの晩年のルイ14世は一日数時間を彼女と共に過ごし、信心深い彼女の影響を多大に受けました。非公式ながらも国王の妻となったマントノン侯爵夫人は豪奢な生活を送るのではなく、弱小貴族の子女を支援する聖ルイ王立学校を創設するなど貧困救済と教育に力を入れていました。ルイ14世の崩御が決定的なものとなると、彼女はヴェルサイユ近郊のサン=シールへ身を引き、1719年に亡くなりました。
マントノン夫人のアパルトマンは2つの控の間、寝室、大広間からなっています。大理石の階段を上がった先、左手に国王のアパルトマンを見て右手にそのアパルトマンは位置しています。特設展では控えの間にまずポール・スカロンやモンテスパン侯爵夫人との関係を示す展示物があります。寝室と大広間には慎み深そうな印象を受ける有名な彼女の肖像画がある他、ルイ14世との書簡も展示されています。ルイ14世に愛された女性、王とモンテスパン侯爵夫人の子供の代母、及び教育者としての彼女のそれぞれの一面を垣間見ることのできる特設展でした。室内の装飾はいずれもオリジナルのものではないのでしょうが、それでも彼女がこの地で王と共に静かな時を過ごしたことに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

さて大理石の階段を降りて右へ進むと、王太子妃のアパルトマンの空間でマリー・レクザンスカ趣味展を見学することができます。
マリー・レクザンスカはルイ15世の王妃ですが、マリー・アントワネットと比べると知名度は決して高くなく、また評価もあまりされない人物です。しかし彼女は王国の後継者を残すという大きな使命を果たしただけでなく、ルイ15世時代の文化の洗練に大きく寄与していました。この展覧会ではそのことを改めて認識することができます。
マリー・レクザンスカはポーランド国王スタ二スラフ1世の娘でしたが、まもなく彼はポーランド王位を追われ一家はフランスのアルザスへと亡命を余儀なくされました。ルイ15世は1721年にスペインのフェリペ5世の娘マリアナ・ビクトリアと婚約していましたが、間もなくルイ15世が重病を患うと、まだ幼くルイ15世との子を成すのに時間がかかりすぎると判断されたマリアナ・ビクトリアとの婚約は破棄され、スペインへと送り返されることになりました。当時周辺ではカトリックの王国は少なく、ルイ15世に適した王族の血を引く女性として最終的に選ばれたのが、当時もはや弱小貴族となり果てていた元ポーランド国王の娘マリー・レクザンスカだったのでした。1725年の結婚から2年後の1727年からこれ以上の出産は危険であると医師に警告される1738年までに、彼女は2男8女の子供を出産するという王妃の重要な使命を果たしました。しかし出産に疲れ果てた彼女はその後一転してルイ15世を拒否するようになり、以後は信仰や芸術、貧困救済などへ力を注ぎました。
第一控えの間では彼女の両親と子供たちの多くの肖像画に囲まれ、待望の王太子を抱えた威厳あるマリー・レクザンスカの肖像画が掛かっています。ちなみにジャン=マルク・ナティエによる王女たちの肖像画は王女のアパルトマンでも見ることのできるものですが、説明書きには複製という但書がないのでオリジナルのものが展示されていると思います(ナティエ作の王女たちの肖像画は個人的に好きなのでこれは嬉しいです)。

王女たちの肖像画

第二控えの間には「五感」と題され王妃の奥の私室に飾られていたジャン=バティスト・ウドリーの作品が全て並べて展示されています。穏やかな田園風景に動物や人物が描かれる中で、触覚、聴覚、視覚、味覚、嗅覚が表されています。王妃はお気に入りの画家であった彼の作品を模写することから始め、ついに自分の作品を描くに至りました。「村」と題された「五感」の対面に展示されているこの油絵はとても良く仕上がっており、農村の家や村人、鳥や牛が生き生きと描かれています。1754年に彼女はルイ15世にこの絵を贈り、彼もこれを嬉しそうに受け取っていたという証言が残されています。左には同じく彼女の手による、王太子に戦場を見せるルイ15世の様子が描かれた「フォントネの戦い」を見ることができます。

中国の様子を想像で描いたキャンバスシリーズ

寝室には「中国人の部屋」と呼ばれるキャンバスシリーズの内の4枚が展示されています。当時流行していた中国趣味によりマリー・レクザンスカは1747年に奥の居室の一室を中国風に装飾しましたが、1761年からはこのキャンバスシリーズへと移行し、宮廷の5人の画家と王妃がこれを製作しました。中国絵画に着想を得ているのは勿論のこと、旅人や中国へキリスト教布教を行うイエズス会士の証言にインスピレーションを受けた建物や人物が、まるでその風景を見てきたかのように豊かに描写されています。これらの作品は王妃崩御の後、侍女であったノアイユ伯爵夫人に遺贈され、その後はノアイユ一族によって大切に保管されてきましたが2018年にヴェルサイユ宮殿によって買い戻されたということです。2枚ずつのキャンバスシリーズの間にある鏡の下には、スタ二スラフ1世をポーランド王位から追い出した新ポーランド国王アウグスト3世から外交関係の改善を目的として1737年にフランスへ贈った、マイセン製の磁器ティーセットの一部が展示されています。フランスとポーランドの国章がデザインされ、音楽家や役者たちなどが描写された細密画が施されています。これらもまた最近ヴェルサイユ宮殿が買い戻したものだそう。
最後の奥の間には、宗教画や宗教関係の蔵書が展示されており、彼女の信仰に根差した生活を垣間見ることができます。ジョゼフ=マリー・ヴィヤン作の「中国に到着したフランシスコ=ザビエル」は私用アパルトマンの扉上部に飾るためのもので、主題は彼女自身が選択したものです。聖人の中でもフランシスコ=ザビエルをとりわけ敬愛していた彼女は彼に関する聖遺物や絵画をいくつか所有していたということです。中国に到着したことを観客に想起させるのはそばに描かれた船に乗る中国人たちだけですが、これもまた中国、東国趣味の流れから来るものでしょう。
この部屋には最後の展示として「マリー・レクザンスカとギリシャ趣味」という名のもと3点の花瓶が置かれています。ロココ様式とは異なるこの新古典様式は、後のルイ16世、マリー・アントワネットの時代へとつながっていきます。

次回は現在ヴェルサイユで開催されている「モリエール月間」についてお送りします。

ヴェルサイユ宮殿観光の手引き⑤

6 6月 2019
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歴代の王子・王女の誕生を見守った王妃の寝室

ついにヴェルサイユにも暑い日がやってきました。以前も書きましたが我が家は最上階なので熱気がこもりやすく、日中外出の際はブラインドを全部おろしますがそれでも帰宅する頃には熱くなっています…。日本に帰ったら窓に貼る遮熱フィルムを買おうと思います。
国王の24のヴィオロンの本番は来週にまだ1回残っていますが、今週は木曜演奏会に向けてアンドレ・カンプラのレクイエムに取り組んでいます。フランス・バロック屈指の名曲、私がこのジャンルにはまるきっかけになった曲の一つをヴェルサイユで、いつも通り情熱たっぷりのオリヴィエと素晴らしい研究センターの歌手、びっくりするくらい上手い少年少女歌手と一緒に上演できるとは嬉しい限りです。器楽も今回は初対面の人が多く、順調に知り合いを増やしているといったところですね。

さて今回は先日修復が終了し再公開されたヴェルサイユ宮殿の王妃のアパルトマンについてご紹介しましょう。
王妃のアパルトマンは鏡の回廊を挟んで戦争の間と対になっている平和の間から見学を始めます。平和の間は王妃のアパルトマンではありませんが、ルイ14世の治世終了後は鏡の回廊と平和の間の間に仕切りが設けられ、実質上の王妃のアパルトマン奥の間になっていました。ルイ15世の王妃マリー・レクザンスカはこの部屋で毎週日曜日に音楽会を開催しており、楽器の演奏に長けた王女アデライードやヴィクトワールたちを育みました。
なお王妃のアパルトマンの修復は終わりましたが、平和の間は現在も修復中で壁は覆われ、通路が設けられているだけになっています。公開されたらまた追記することとします。次は寝室から順に、公的空間へ向けて順路を進んでいきます。
・寝室
国王のアパルトマンはルイ14世時代から既に儀礼のためだけの空間で居住するためのものではなく、その後の国王も特に内装に手を加えなかったのに対し、王妃のアパルトマンは実用する居住空間であったためマリー・レクザンスカとマリー・アントワネットによって内装は変更されています。この寝室は天井の枠組みこそマリー・テレーズ(ルイ14世の王妃)時代のものが残るものの、他は全てマリー・レクザンスカの内装です。暖炉と鏡付近はバロック様式よりも優雅で繊細なロココ様式の木彫で装飾されており、寝台側の壁面はユリの花束とクジャクの羽がデザインされたマリー・アントワネット時代の壁布が復元されて寝台とも調和しています。扉の上にはマリー・レクザンスカの子女のうち5人が描かれ、多くの子を持つ母として生きた彼女の一面を垣間見ることができます。天井のグリザイユ画法(モノクローム画法)で描かれたフランソワ・ブーシェによる4つの絵はそれぞれ王妃が持つべき4つの美徳である豊穣、忠実、慈悲、慎重の寓意です。また4隅にある木彫を除いて他の天井部分は壁面の木彫に対応する騙し絵になっています。
この部屋では国王と同じく儀礼に従った謁見が行われたほか、王位継承権を持つ嫡子の正当性を主張するため出産はこの部屋で公開のもと行わなければなりませんでした。1789年10月6日、暴徒がヴェルサイユ宮殿に押し寄せた際には寝台の左右にある小さな隠し扉を通って、マリー・アントワネットは奥の間へと逃げ込みました。

・貴族の間
アパルトマンの機能上は控えの間にあたりますが、マリー・レクザンスカはこの部屋を大広間として整備し、設置した天蓋に座って謁見を行っていました。
部屋の主題は対になる国王のアパルトマンに対応させるため芸術と科学の守護神で天上からの使者であるメルクリウスとなっていて、中央にはメルクリウス、四方には絵画、哲学、織物、音楽に長けた女性たちの逸話が描かれています。寝室の装飾には手を加えなかったマリー・アントワネットはこの部屋には大きく手を入れ、壁面にはそれまでの木彫をやめてヤシの木の模様が入った緑のダマスク織の壁布をかけるという、当時流行の英国風を取り入れました。マリー・アントワネットお気に入りの家具職人リーズネルがこの部屋に収められたはずの洗練された家具は革命の際に散逸しましたが、一部は買い戻されて展示されています。

・大膳式の間
この部屋は第一控えの間であると同時に、国王と王妃の公式晩餐会である大膳式が行われる部屋でもありました。暖炉を背に国王夫妻は豪華な椅子に座り、その周りに座ることができるのは王族と侯爵夫人のみでした。食事においてもルイ14世はこれを儀式化し、権力誇示の場としました。王妃の死後1690年からルイ14世はこの大膳式を自分のアパルトマンの第一控えの間で行うようになりますが、ルイ15世の治世になるとこの儀式は再びこの部屋で行われるようになりました。マリー・アントワネットは食欲旺盛なルイ16世と対照的に、手袋を外さずあまり食事に手を付けなかったそうです。
この部屋の装飾は貴族の間と打って変わって赤い壁布となっており、天上には国王の大アパルトマンのマルスの間でも見ることのできたル・ブランの「アレクサンドロス大王にひれ伏すダレイオスの家族」を中心に、周りには戦場に赴く古代の勇猛な女性たちの場面が淡彩画で描かれています。戦争の神マルスは描かれてはいませんが、明らかにこの部屋の主題は戦争であり、マルスの間と対応しているのが分かります。暖炉の反対側には3人の子供と共に描かれたマリー・アントワネットの肖像画が掛けられています。

・衛兵の間
衛兵の間は通常あまり装飾がなく見どころが少ないものですが、この王妃のアパルトマンの衛兵の間は見どころがたくさんあります。今までの部屋は歴代の主人によって内装が大きく改造されましたが、この衛兵の間には王妃が来ることはないため改装は行われず、17世紀の内装が現在も残っています。壁面には多色の大理石が幾何学模様に実に美しくはめ込まれ、扉上部や鏡周辺にはバロック様式の木彫が見られます。天井の中心には最高神ジュピテルが神々しく描かれており、四隅に描かれた欄干から身を乗り出している宮廷人たちの称賛を受けています。この部屋の主題はジュピテルと共に正義であり、円天井は古代の偉大な王や哲学者を描いています。
衛兵の間を抜けると、かつては衛兵の控えの間であったルイ=フィリップ王の「戴冠の間」へ順路が続きます。

今回は王妃のアパルトマンについてお伝えしました。次回は現在開催されているマリー・レクザスカ展とマントノン夫人展についてお伝えします。