Monthly Archives: 4月 2019

ソー公園の花見祭り

24 4月 2019
ソー公園の花見祭り はコメントを受け付けていません

ちょうど見頃を迎えていたソー公園の八重桜

先週まで薄いコートを着ていたのに、いきなり暖かくなりました。昼間は25度を超え、道行く人にはノースリーブの人もいるほど。
私の部屋は最上階で日当たりが良いので、窓を閉めていると暑くなってきます。これが長い夏の始まりか。
先週はフランス初仕事となるオーケストラのリハーサルでノルマンディー地方のカーンに行ってきました。これについては次週詳しく取り上げますが、往復師匠の車に便乗するだけのとても楽な旅路でした。明日からまた現地へ行って、金曜日と土曜日本番です。

先週末は復活祭前でしたが、パリ郊外のソー公園では花見祭りが行われていたので行ってきました。
まずソー公園について。この地には15世紀から有力貴族の城館がありましたが、最も華やかだったのはルイ14世の有名な財務総監ジャン=バティスト・コルベールの時代でしょう。ヴェルサイユも手掛けた庭園技師アンドレ・ル・ノートル、室内装飾家シャルル・ル・ブランの技がここでも光っており、国王も臨席した祭典が開かれました。もっともコルベールは、あの豪華すぎるヴォー=ル=ヴィコント城を作ったために国王の嫉妬を買った財務卿フーケの二の舞にならないように、拡張のし過ぎには気を使っていたようです。
革命後は競売にかけられ、改築が行われた結果今日ではコルベール時代の面影を残すものはわずかとなっています。
さて、ヴェルサイユ・シャンティエ駅からRERC線とB線を乗り継いでラ・クロワ=ド=ベルニー駅で下車。少し歩いて公園の南側の入り口から入りました。花見祭りが開かれているだけあって、入り口付近の売店は行列ができて大変繁盛しています。
大運河の周りに高いポプラの木が左右対称に植えられ遠くまで続いている様は圧巻。これもル・ノートルの設計なのでしょうか。ヴェルサイユには大運河の周りに高い木々を植える演出はありませんが、これも良いなと思いました。
桜が植えられているのは大運河の西側の2か所、南のボスケ(人工の木立)には白い桜(木に詳しくないので品種が分かりません)、北のボスケには桃色の八重桜が植えられています。これらはもちろんコルベール時代にあったものではなく、20世紀初頭にパリで活躍した実業家薩摩治郎八が寄贈したものだそうです。まあ、満開の桜を見ればル・ノートルも許してくれるでしょう。南の白い桜は若干時季が過ぎたようで終わっているものもありましたが、まだ咲いているところもたくさんありました。木陰ではたくさんの人が日本同様飲んだり食べたり騒いだりしています。
西側中央付近のシャトネー広場で花見祭りは行われていました。事前に見たプログラムだと阿波踊りと書いてあったのでたくさんの人が踊ってるのかと思いきや、会場では観客の前で2人の日本人らしき人たちが太鼓を叩いているだけ。観客席は区画割りがされていて、中で見物するのは有料のようです。しばらく様子を見ようかと思いましたが、この日も天気が良く気温は25度を超えており、広場で遮蔽物がない会場はいつまでもいると熱中症になりそうだったので引き上げることにしました。今回のレポートのメインとなるはずだったのですが、そんなに大掛かりでもないし、何より出国から1年も経ってないのであまり物珍しさもなかったというのが本音。それよりもフランス式庭園を観たいなと思いました。
続いて北のボスケの八重桜ですが、こちらは文句なしに満開でした。日本の桜といえば染井吉野ばかりで八重桜は比較的少ないですが、個人的には好きなんですよね。南のボスケよりも花見客が多かったです。中央付近では何やら舞踊を披露している女性たちがいましたが、うーん、どう見ても日本ではないアジアのどこかの人たち…。
その後は現在工事中の城館と北に位置する小城館を外観だけ眺め、東に位置するオーロラ館と厩舎跡地にある建物で行われていたコルベール展を少し見ました。コルベール展はコルベール一族の系譜と各人の肖像画の展示が行われているもの。後はオランジュリーに入ることができるのですが、ここは来月演奏を行うために入るのでパスしました。
不覚にも飲み物を持ってこなかったので散策後半は喉がカラカラになりました。これからの季節は水分補給は必須ですね。
結局、個人的に一番感動したのは最初の大運河の眺めだったかもしれません。でも何年も住めば、毎年この公園に咲く桜を見て懐かしく思うのでしょうね。パリ周辺にお住まいの方は、是非お花見に足を運んでみてはいかがでしょうか。

今回はソー公園の花見祭りについてお伝えしました。次回はロルマンディー地方とオーケストラについてお送りします。

【緊急特集】パリ・ノートルダム大聖堂火災による被害状況

17 4月 2019
【緊急特集】パリ・ノートルダム大聖堂火災による被害状況 はコメントを受け付けていません

中央にあった木造の尖塔と聖堂を覆う屋根は完全に焼失した

今回はパリのサント=シャペルをご紹介する予定でしたが、急遽予定を変更してパリのノートルダム大聖堂の現況についてお伝えしたいと思います。
既に多くの方がご存知とは思いますが、パリの中心部シテ島にあるノートルダム大聖堂が15日夜から16日早朝にかけて火災に遭い、フランスのみならず世界中に衝撃を与えました。19:50頃出火し、屋根伝いに徐々に延焼し木造の尖塔も炎上、間もなく崩落しました。懸命な消火活動が行われましたが午前3時頃鎮火に至るまで約7時間燃え続け、結果木造部分の尖塔と屋根が完全に焼失する結果となりました。
火災当時、私はヴェルサイユの音楽院でちょうど室内楽の授業に参加していましたが、教室の隅の方で数人がスマートフォンの画面に映るニュース映像を手に「ノートルダムが燃えている」と騒ぎ出しました。初めは当然先生が私語をする生徒たちを一喝しましたが、間もなく一時この話題で持ちきりに。私は演奏担当だったのであまりその人たちのそばに行けず、どこのノートルダムだろう、もしかしてヴェルサイユ?とも思いましたが間もなくあのパリのノートルダムだと知りました。
22時頃帰宅してからずっとライブのニュース映像を見ていましたが、一向に鎮火する様子はなく勢いよく燃えていました。ヴォールト天井や壁面、絵画やステンドグラスもただでは済まないのだろうと考えていました。就寝前に日本でも盛んに報道されていることを知り、世界の注目度を改めて認識しました。

TwitterなどをはじめとするSNSの普及によって憶測やデマが横行しがちな現代ですので、これは自分の目で確かめなくてはと思い昨日の午後現場周辺を見に行ってきました。
語学学校の授業が終わりモンパルナスからシテ島へ向けてメトロに乗りましたが、現場周辺のサン=ミッシェル・ノートルダム、シテ駅などは閉鎖されており通過扱いになっていましたのでオデオン駅で降りて歩くことしばし。サン=ミッシェル広場まではいつもと変わらない人混み(常に混雑している観光地ですので)でしたが、セーヌ川沿いに大聖堂を望めるサン=ミッシェル通りとその先のモンテベロ通りは大聖堂の見物客でごった返し、ポン・デ・クール橋は警察によって封鎖されており報道陣の車が多数止まっていました。
まもなく大聖堂の入り口にあたる西正面が見えてきましたが、西側のファサードと2つの塔は見る限りでは無傷でした。北の塔に延焼したという報道を聞いたような記憶がありましたが、特に焼けたような様子は確認できないように思います。
続いて南側。西側から東側の後陣まで聖堂を覆っていた群青色の屋根と木造の尖塔は完全に無くなり、石の建造物と化しています。外壁、ステンドグラスは見た限りではほぼ被害はありませんが、唯一バラ窓と呼ばれる円形の窓の上部にある小さな窓のステンドグラスは失われたようで、その窓から火が出ていたことを物語る焦げ跡が残っていました。大きなバラ窓が失われなかったのは幸いでしたが、上部の小さい窓の焼失は大変残念です。
後陣部分に回って見てみると、あの壮観なフライング・バットレスは相変わらず健在ですが、屋根がなくなったために禿げ頭のような印象になってしまいました。しかし後陣部分も外壁やステンドグラスの損傷は見受けられませんでした。セーヌ川の散歩コースや橋の上には写真を撮る人、報道陣にインタビューを受ける人などで混み合っていました。
サン=ルイ島を経由して北側へ回ってみましたがシテ島が封鎖されているため外壁を見ることはほとんどできませんでした。前の建物に遮られていないバラ窓上部の三角形の部分は見ることができましたが、残念ながら南側同様こちらの小さな窓のステンドグラスも失われてしまいました。焦げ跡は南側よりもはっきり分かるほど黒ずんでいます。

以上が外部から見ることができた現況です。率直な感想としては、尖塔と屋根以外は思ったほど被害を受けていないなという印象です。行くまではもっと深刻な被害が出ているだろうと思っていました。最も遠くから外観を見ただけですので、詳しくは何とも言えません。
内部はニュース映像や写真で確認することしかできませんが、ヴォールト天井は中央部と後陣部分の2か所に穴が開いており、他の部分も長時間炎に晒されたわけですから多少なりとも被害はあるように思います。聖堂内部は屋根や尖塔の瓦礫が散乱しています。聖遺物などの文化財は消防隊による決死の救出劇により難を逃れたと報道されていますが、壁面にあった大量の絵画や彫像はどうなったでしょうか。また音楽界では話題になっている大オルガンは、火と放水によって残念ながらほぼ完全に破壊されたという記述がありました。オルガンは典礼上重要な役割を担うわけですから、これはとても残念なことです。
マクロン大統領は強い語調で再建を宣言していましたが、黄色いベスト運動など多くの問題を抱える中で果たしてうまく事が運ぶかどうか。パリのシンボルですので再建しないということはあり得ないでしょうが、おそらく私の留学中はもう内部には入れないのだろうと思っています。まだ塔にも上っていなかったのに。
ところで出火原因は一体何なのでしょう。まだはっきりとした原因は特定されていないようですが、修復工事の何かが原因となっていることは間違いありません。この点を早く突き止めないと、現在目下修復中のヴェルサイユ宮殿を始め多くの現場も「対岸の火事」ではないことになります。
いつも当たり前にそこにあって、空気のように街並みに溶け込んでいる歴史的建造物。何百年もその雄姿を見せてくれているものでさえ、常なるものはないなと改めて感じた事件でした。

今回はパリ・ノートルダム大聖堂の現況についてお伝えしました。次回はソー公園の花見祭りについてお伝えしたいと思います。
それにしても、またサント=シャペルに行き損なってしまいました…。シテ島が落ち着いてから行くことにします。

中世の城塞、ヴァンセンヌ城

10 4月 2019
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高さ50m、中世の塔としては最も高いドン・ジョン塔

暖かい日もあれば肌寒い日もある。コートを着て出かけたら昼間は暑くて荷物になったり、ブレザーでいいやと思って出たら案外寒かったり。春はどこでも衣服の選択が難しい季節ですね。
先週の木曜日は王室礼拝堂でリュリのミゼレーレの本番がありました。当日はいきなり現地のリハーサルで、しかも一回通すだけ。歌手たちは慣れているかもしれませんが、私はオリヴィエの指揮は初めてだったので各部の始めや終わりが少し不安のまま本番へ。演奏してみたらやはりその通りで、特に一番最後などは難しかったです。時間の制約がある中で細部までしっかり仕上げることはなかなか大変ですね。

さて、今回は前回までのヴェルサイユ宮殿とは打って変わって、堅牢な中世の城であるヴァンセンヌ城について紹介したいと思います。
パリの中心部から5㎞ほど東に位置するこの城は中世のカペー朝時代に狩りの館として建設され、その後増築を重ねながらヴァロワ朝時代のシャルル5世の手によって完成を見ます。その後変化があるのは初期のルイ14世時代、南側に新しい城館とアーケードを建設しました。以後はヴェルサイユが中心となっていくのでこの城に手が加えられることはありませんでしたが、革命後ナポレオンによって要塞化され、大砲を配備するため四隅の塔は城壁と同じ高さまで解体されました。現在でもフランス軍に関する史料を多く保管しています。
メトロ1番線の終点であるヴァンセンヌ城駅を降りると、駅構内から既にヴァンセンヌ城の歴史について紹介している展示コーナーがあります。城に一番近い出口から外に出るとすぐに城門が見えます。城門へは橋を渡っていきますが、下を見ると堀が結構深いのが分かります。なるほど、さすがは城塞。
手荷物検査を受けて中に入ると、城壁で囲まれた敷地内にいくつか建物が点在しています。右手の建物でチケットが購入でき、日本語のガイドマップを入手することができます。左手の芝生の中央にはシャルル5世時代の噴水の遺構があります。窪んでいるので遠くから見ただけではわかりませんので、ガイドマップを見て探してみましょう。かつてこの付近には館があったようです。
中庭の中央まで進むと、右手にドン・ジョン塔、左手にサント=シャペルがあります。どちらから行っても良いですがここではまずドン・ジョン塔から入ってみましょう。
先ほど城塞の中に入ったばかりなのに、この部分も小さな城塞になっています。深い堀はかつては水堀であったようで、城壁の土台部分は内側に向かって傾斜しています。橋を渡っていくと右側に守衛所がありチケットを提示するのですが、あまりやる気がないのか中で談笑していて私が来ているのに中々出てこない(笑)。ちゃんと仕事しましょうね。中に入ると左手の方に順路があり、螺旋階段を上っていきます。上がった先は2つの秘書室に挟まれた国王の執務室。ヴェルサイユ宮殿と違って国王の執務室といえども狭く普通によくある事務所くらいの大きさです。壁は当時は彩色されていたのでしょうが今日ではただの石の壁。
この棟を上っていくと屋上に上がることができ、領主になった気分で辺りを見渡すことができます。傍らには1369年に教会ではなく宮殿という世俗の建物としては初めて設置された鐘の複製があります(本物はシャペルに置いてあります)。階段を下りて主塔に行く前に、周りを囲む通路を一周してみましょう。今日では屋根がついていますが、中世の時代にはなかったようです。城の外側に面する窓は幅の広いものと狭いものが交互に配置されていますが、これって日本の城砦にもありますよね。日本では弓用と鉄砲用の窓として機能しますが、フランスも同じなのでしょうか。また足元には一定の間隔で開口部があります。現在では金網で転落しないようになっていますが、おそらくよじ登ってくる外敵に向かって投石などをするのでしょう。
通路を一周したら、橋を渡って主塔に入りましょう。まずは閣議の間。中央の柱から放射状に伸びるリブヴォールトが美しいです。壁面のディスプレイではシャルル5世の歴史に関する映像を見ることができます。上の階に上がると国王の寝室や礼拝所、宝物室や読書室があり、一部は壁面の装飾が残されていて、当時を偲ぶことができます。シャルル5世はとても勉強熱心で本をたくさん読んでいたため、王の希望により快適な図書室が設けられたそうですよ。
順路を進んで地上階まで下りると、建設当初からある井戸と、この城塞に囚人として住んだ人たちの展示があります。堅牢な建築故に、16世紀から監獄として度々使用され、ルイ14世の嫉妬を買った財務卿フーケ、フロンドの乱で王権と対立した大コンデ、『百科全書』の出版を危険視されたディドロなどがこの地で蟄居を余儀なくされました。同じくフロンドの乱で逮捕されたボーフォール公はこの城塞の西側から脱獄し、アレクサンドル・デュマの小説にもその様子が描かれています。
塔の外に出るとこの部分の見学は終了です。四方を囲む通路の下には城塞修復の映像が放映されている部屋がありましたが、興味があれば行ってもいいでしょう。
城門を出たら、次は向かいにあるサント=シャペルへ行ってみましょう。パリの有名なサント=シャペル(実はまだ行っていない私)を模して造られたシャペルで、西正面の彫刻は凝ったものになっています。聖堂内は簡潔にまとめられている印象で、大きいステンドグラスが美しいです。祭壇の右側に前述の鐘のオリジナルがあります。奥へ進むと右に国王、左に王妃のための礼拝所がありますが国王の礼拝所は非公開でした。入り口付近の階段から階上席へ上がることができます。
シャペルを出たら、次は左手のル・ヴォーの城館へ行きましょう。ドン・ジョン塔の無骨な建築、シャペルのゴシック様式とは異なる古典様式の美しいアーケードをくぐると、右側に国王の城館、左に王妃の城館があります。ル・ヴォーがヴェルサイユはおろか、ヴォー=ル=ヴィコント城さえ手掛ける前の初期の建築であるこの2つの城館は完全に左右対称に設計されており、静謐な古典様式でまとめられています…が、やはり後の作品を知っているだけにもう一捻り欲しいなあなどと思ってしまいました。右側の国王の城館のみ入ることができましたが、内部ではフランス軍の特設展示が開かれており、軍服や勲章が延々と陳列されていました。ルイ14世時代の雰囲気を味わいたかったので少し残念。ルイ14世の図書室は壁面に美しい装飾が施されていて是非入りたかったのですが、入口部分しか見られませんでした。今日も図書室になっているようです。
余力があれば是非、堀の外を一周して城壁を眺めてみましょう。ドン・ジョン塔の裏側や南側、東側の門も見ることができます。

今回はヴァンセンヌ城についてお伝えしました。次回は前述したパリのサント=シャペルをご紹介したいと思います。

ヴェルサイユ宮殿観光の手引き④

3 4月 2019
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ヴィクトワール王女の大広間

新元号「令和」が発表されましたね。遠く離れたフランスでも4月1日は日本人同士でこの話をしていました。平成生まれの私としては改元は始めてなので何だか感慨深いです。
先週は語学学校で毎月末に行われている校外学習でパリ高等裁判所を見学してきました。日本でも見たことのない実際の裁判の様子に加え、裁判官、弁護士共に黒い法服を着ていたのが印象的でした。建物はパリ郊外にあり、近代的な建物で法廷も会議室のような感じでした。
先週末には師匠パトリックのリサイタルが小さな教会で行われました。テレマン、ビーバーとJ.S.バッハのパルティータ2番という完全無伴奏リサイタル。9月から師弟関係を開始しましたが初めて「本気」の演奏を聴くことができました。学ぶべきことはまだまだありそうです。
今週は木曜演奏会に向けてヴェルサイユバロック音楽研究センターの学生と少年合唱団と共にリュリの名曲《ミゼレーレ》に取り組んでいます。指揮はあの有名なオリヴィエ・シュネーベリ、今まで演奏会で何度か見かけましたが共演するのは初めてです。彼の熱血指導、特に歌詞の朗誦法に関してはとても素晴らしくて、歌手たちは皆若いにも関わらず今まで経験したことのないような彫りの深い表現を伴った歌唱を披露してくれます。やはりここに来てよかった!と思うと同時に、改めて格の違いを思い知らされたという感じですね。

さて、今回のヴェルサイユ宮殿観光ツアーは地上階の王女たちのアパルトマンです。
「王妃の階段」を下りて一度栄光の中庭に出て、宮殿正面に向かって進みます。白と黒の大理石が敷かれた部分は特に「大理石の中庭」と呼ばれ区別されており、ルイ14世の時代からここで野外オペラ上演などが行われています。ヴェルサイユ宮殿の核であるルイ13世の小城館に三方を囲まれ音響もそれなりにあるようですよ。機会があったら観劇してみたい!ここで記念撮影されている方も多くいて写り込むのは申し訳ない気にもなりますが、順路なので中庭を進み正面中央の扉から中へ入りましょう。
巨大な大理石の円柱の間を抜けると、いくつかの彫像が置かれているだけの割とそっけない回廊があります。鏡の回廊の下の部分にあたるこの「下の回廊」はルイ・ル・ヴォーによって建築され、現存しない国王の浴室へと続いていました。普通なら何も見ず素通りしてしまうかもしれませんが、是非彫像を見てください。春夏秋冬、四代元素(水、土、火、空気)が擬人化されています。これらの題材は庭園を見る際にも重要になりますので頭の隅に留めておきましょう。
右手にある通路を進むと王女たちのアパルトマンに入ります。ヴェルサイユの儀礼では、王家の子供たちは召使い付きのアパルトマンを与えられましたが、今日ここにあるのは革命による王家の終焉により最後の持ち主となったヴィクトワール王女とアデライード王女のものです。革命の際に調度品が散逸したのに加えて、ルイ=フィリップ王がここにも展示室を作ったため今日見られる姿は復元されたものですが、2人の王女の生活の様子を思い浮かべることができます。
まずはヴィクトワール王女のアパルトマンから。最初の部屋は第一控えの間で、装飾はほとんどなく簡素なものです。壁には女性の肖像画としてはとても大きいサイズである3枚が掛かっており、右から順にヴィクトワール王女、姉妹の中で唯一結婚しスペインへ嫁いだエリザベート王女、アデライード王女です。このアデライードの肖像画は過去に私がライナーノーツの制作に協力したCDのジャケットになっていて、最初に訪れた時すぐにそれと分かりました。
次は第二控えの間。第一控えの間より装飾は格段に多くなりますが、国王の大アパルトマンで見られたようなバロック装飾とは異なり繊細なロココ様式の木彫です。なおこの王女たちのアパルトマンについては多くの装飾が失われており復元されたものもあるようですが、どれがオリジナルでどれが復元されたものなのか見ただけではわかりません…。本文では今日の状態をお伝えします。
大広間に入ると、並べて置かれた2台のチェンバロが存在感を放っています。残念ながら王家の楽器ではありませんが、18世紀のオリジナル楽器とのこと。詳しく見たいところですがロープが張られ近くで見られないだけでなく、ふたが閉められカバーが掛かっています…。この王広間で2人の王女はしばしば演奏会を開き、自分の楽器演奏の技量を披露しました。ヴィクトワール王女はチェンバロとハープ、アデライード王女はヴァイオリンを弾きました。彼女たちはどの肖像画を見ても特徴は明らかで、ヴィクトワールはふくよかで温厚、アデライードは細身で生き生きとした感じですが、これは彼女たちの楽器にとても良く合っていたことでしょう。ちなみにこの部屋には一部にバロック様式の装飾を見ることができますが、これはかつてこの場所にあったルイ14世の浴室の一角である八角形の部屋の名残です。壁には肖像画が多くかかっていますが、その中には幼少期より修道院へ送られ母親である王妃が長らく会うことができなかった、ヴィクトワールを含む4人の末の王女たちを見ることができます。
寝室は緑色を基調とする夏用の布で装飾されていますが、これは当時の製作技法により復元されたものです。他のアパルトマン同様、冬はビロードの布に取り替えられますが、今日の宮殿の調度が夏用になっているのは革命で王族が去ったのが夏であったからです。壁の装飾は壁布が大半を占めるためあまり多く見ることはできませんが、天井と壁の間には子供(天使?)や女性をモチーフにした優美な装飾を見ることができます。この部屋にも大きな肖像画が掛かっていますが、赤いドレスを着てヴィオールを弾いている女性は24歳で亡くなったアンリエット王女です。彼女もまた音楽を愛好し楽器演奏に長けていました。その他特徴のある家具は向かって右の暖炉の上に置かれた緑の陶磁器の壺でしょうか。これらは革命の際に売られて散逸しましたが、近年宮殿が買い戻したヴィクトワールの所有品の一つです。
次は奥の間です。寝室が公的空間であるのに対して、奥の間は真にプライベートな間であり、家主に特別に招かれた時のみ入ることができました。部屋の装飾は優美な木彫が多く使われていますが、天井と壁の間の装飾は楽器をモチーフとしたものです。窓際には妹ヴィクトワールの肖像の横で机に向かうアデライードの肖像画を見ることができます。生涯未婚で子供もいなかった2人の王女たちにとって姉妹の絆は大事なものであったのでしょう。
次の部屋は同じく私的な空間である図書室です。現存するのはヴィクトワールの図書室のみであり、その上にあったアデライードの図書室は失われてしまいました。2人はとても読書好きで蔵書が大量にあり、科学の本なども読んでいたそうです。ヴィクトワールの蔵書は緑色、アデライードの蔵書は赤色の製本で整理されていました。
ここから先はアデライードのアパルトマンになりますが、図書室を軸に今度は私的空間から公的空間へ出ていくことになります。まず最初は奥の間ですが、おそらく大部分の装飾は失われたのでしょう、奥の間にしては装飾が少ない印象です。このアパルトマンはかつてルイ15世の公妾であったポンパドゥール侯爵夫人が所有していたものであり、この奥の間は「赤い漆の間」と呼ばれていました。
次は寝室。ヴィクトワールの寝室とほぼ同様で、ここにもアデライードとヴィクトワールの肖像画が対になって掛けられています。一連のアパルトマンには一体何枚彼女たちの肖像画があるのでしょうか。天井の端には子供(天使?)をモチーフにした装飾があります。彼女たちのアパルトマンでたびたび見られるこの題材は、もしかすると子供のいなかった2人の母性をくすぐるものだったのかもしれないなと思いました(違うかもしれません)。部屋の右には高級家具職人ジャン・アンリ・リーズナー製作の精巧な箪笥、その上に金箔ブロンズの燭台があります。
アデライードの大広間には室内用のオルガンと傍らにハープが置かれているのが目につきます。室内用と言ってもいわゆるポジティフオルガンではなく、教会などにある大オルガンをそのままスケールダウンした感じの豪華なもので、装飾も凝っています。中央の二匹の犬(グレイハウンドという犬らしい)は女性を表す婉曲表現で、この所有者が王女であったことを示しています。壁にはまたしても2人の王女の肖像画がありますが、右にあるアデライードの肖像画はよく見ると足元にいる犬が楽譜を踏んでいます…何かの表現なのでしょうか。
あとは簡素な第二控えの間と第一控えの間を見て終了…と思いきや、いきなり大きな部屋に出ます。弓兵の上着の名に由来する「オクトンの間」と呼ばれるこの場所には元々衛兵の間があり、その後ポンパドゥール夫人がアパルトマンの第一、第二控えの間に改装して以来アデライードのアパルトマンの一部として革命を迎えますが、その後かつての衛兵の間を復元したようです。大広間側には金色の鉄柵があり、かつてはルイ14世の浴室へと続いていました。
最後に「大使の階段」の入り口ホール跡を通りますが、ここに大使の階段の模型があります。近くに行って見たいのですがロープが張られていて遠くからしか見ることができません。見せてくれればいいのにー。
こうして再び栄光の中庭へ出て、王女たちのアパルトマンの見学は終了です。宮殿の見学を終了する際は反対側、最初に中庭に出たところから「Sortie(出口)」の案内に従って階段を下っていくとオーディオガイドの返却所があります。持ったまま出ようとすると警報が鳴るので必ず返しましょう。

今回は王女たちのアパルトマンについてお伝えしました。正殿とそれに続く棟で公開されている場所は他にルイ=フィリップ王の整備した戦争の回廊やフランス史博物館などがありますが、いずれも旧体制時代のものではないため割愛したいと思います(気が向いたらやるかも)。庭園やトリアノンは、もう少し暖かくなってからのお楽しみということで。
来週はところ変わって「ヴァンセンヌ城」をお伝えしたいと思います。