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修了リサイタル

23 9月 2020
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サル・ラモーでの最後の演奏会になりました

先週土曜日は帰国に際して処分する品を譲渡するために、パリ周辺に住む知り合いを数人誘って交流会を開きました。私自身、引き揚げる3人の方からいろいろな品を譲っていただいていたので、大半の品が次の持ち主の手に渡って良かったです。ただテュイルリー庭園でやっていたのですが、途中から大雨になって散々な目に…。笑
日曜日はツール・ド・フランスの最終ステージで、ヴェルサイユ宮殿前もコースに含まれていたので観戦に行きました。15時半頃からスポンサー企業の車列がクラクションを頻繁に鳴らして粗品を観客に放り投げながら通過。警察や救急車の乗員まで車内から記念撮影を行ったりしていて、何だか良くも悪くもフランスだなと思いました。そのまま待つこと1時間半あまり、競技者たちが通過。殆ど群衆で走行していたので長らく待った割にはわずか1分ばかりの観戦時間でした。まあ一度見てみたかったので良い思い出です。本当は同日行われていたルマン24時間耐久レースに行きたかったのですが、次の日にリサイタルを控えて土曜日から泊まりがけはさすがに叶いませんでした…。

さて今回は修了リサイタルの模様をお伝えします。
元々6月に試験を兼ねた修了リサイタルが予定されていたのですが、感染対策のため全ての公開試験は中止となり、2019年度の卒業者は試験がないまま卒業となってしまいました。しかしこれで私が留学を終えるのはあまりに不憫に思ったのか、パトリックが9月に記念のリサイタルをやるように勧めてくれました。
ヴェルサイユの音楽活動ではリュリを始めルイ14世時代の作品を演奏する機会が非常に多く大変勉強になりましたが、私がテーマに選んだのはルイ15世時代のロココ様式。ルイ15世の王女でヴァイオリンを達者に弾いたマダム・アデライードに捧げるプログラムという体裁を取りました。
何故ロココ様式を選んだのかというと、まず日本にいる時からこの様式が好きだったのと、ヴェルサイユ宮殿の多くの部屋はルイ14世の死後様々な主人によって改装されていて、まさにロココ様式の粋を今日に伝えており、それらを見ることによって見識が飛躍的に広がったからです。またルイ14世時代はヴァイオリンはまだあくまでオーケストラや舞踏での伴奏楽器としての役割が大きく、フランスでヴァイオリンの独奏曲が発展するのは主にルイ15世時代であり、このレパートリーを押さえるのは必須と思いました。
そんな訳で、今回選んだのはマダム・アデライードの時代にヴェルサイユで活躍したアントワーヌ・ドヴェルニュ、ルイ・オベール、ジュリアン=アマーブル・マチューの3人のソナタ。ドヴェルニュはオペラで若干有名ですが、オベールとマチューはフランスでもまだまだ知名度が高くありません。しかし特にマチューは最後の王室礼拝堂楽長として王国の終焉まで活躍しており、宮廷で非常に重用された存在だったようです。
昨年来ソロを弾く時に伴奏を頼んでいるチェロとチェンバロの同僚に今回も共演を頼むことができ、リハーサル3回、レッスン2回で本番に臨みました。彼らもロココ様式の雰囲気を掴むのはなかなか難しいようで、試行錯誤しながら進めていきました。
当日は午後にリハーサルかつ最後のレッスンがあった後、直前に2、3箇所微調整をして本番へ。音楽院が公式に主催しているわけではないのであらゆるセッティングを自分でやらなければならず本番前は結構大変でした。お客様は感染対策のため門下の同僚はリハーサルに来るなどしてできるだけ人数を絞って20人弱、間隔を開けて着席しました。
パトリックのコメントが少しあった後に私もコメント。日本語同様大まかに話の内容を決めるだけで話したので、未だフランス語が不完全なのがバレました…もう仕方ないですね。
この日も日中は暑く、室内の空気もまだ少し温かいままだったので演奏中は汗だくになりました。
2曲ソロソナタを弾いた後、最後のマチューはパトリックとのデュオ。1764年出版の作品ですがもう片足をクラシックに踏み入れたような曲で締め括りました。
通常のアンサンブルの演奏会なら終わった後にその場でパーティーをするのですが、感染対策のためそれも中止。有志で近くのバーに行って解散しました。
この2年間、パトリックを始め素晴らしい先生から教えを受けたのもさることながら、ヴェルサイユ地方音楽院の18世紀からある歴史的な建物の部屋で練習、演奏する機会を得ていたことは大変貴重だったなと、改めて思いました。

このヴェルサイユ便りも次回で最終回になります。引き揚げ準備の模様と、留学の総括を書きたいと思います。

パトリックのオーケストラプロジェクト…中止、そして逃亡

18 3月 2020
パトリックのオーケストラプロジェクト…中止、そして逃亡 はコメントを受け付けていません

まずは先週行われていたパトリック主宰のオーケストラ「レ・フォリー・フランセーズLes folies françoises」のリハーサルの模様をお伝えします。

今回の公演はモナコ、オルレアンを回り、ルベルのバレ「元素」、ルクレールのヴァイオリン協奏曲によるバロックプログラムとヤン・マレシュYan Mareszの新作「衝動Tendances」の演奏が行われる予定でした。

ルベルの「元素」はずっと演奏してみたかった曲で、第一曲「カオス」でトーン・クラスター(2度音程を密集させた強烈な不協和音)に近い和音を使用するというセンセーショナルな作品です。私はこの曲のみオート・コントルのヴィオラを担当しましたが、弾いている方は自分の音が大きく聞こえるので意外とえぐみは感じないものなんですよ。ヴァイオリンの「火」を表す目まぐるしいパッセージは弾いていてとても楽しそうでした。

ルクレールの協奏曲は昨年ノルマンディーのオーケストラで弾いていたものと同じ曲で、勝手知ったるで弾くことができました。

問題はマレシュの新作。オーケストラパートの楽譜はあまり複雑ではないのですが、モダン・ヴァイオリンのソロパートは大変難しく、ソリストのカン・ヘスンはとてもよく弾きこなしていましたが何せオーケストラとのすり合わせが難しかったです。あと初日からマレシュがリハーサルに来ていて、強弱やニュアンスを現物合わせで細かく指示していたので、それにも時間をかけなければなりませんでした。全体は10のセクションに分かれていて、最後のセクションは弦楽器が16部音符を刻み、アクセントで分ける音のグループが2から8まで順に増減する仕掛け。5と7が難しくてみんな練習していましたね。

さて、初リハーサルが終わった木曜日の夜、マクロン大統領がテレビ演説を行いフランス全土の学校の閉鎖、移動や集会の自粛要請を発表しました。演奏会は当然集会にあたるため、翌日のリハーサルではおそらくオルレアン公演は中止になるだろうという話がなされましたが、モナコはフランスではないのでどうなるかまだ分かりませんでした。しかし翌土曜日朝にはモナコ公演の中止連絡を確認し、その他3月に予定されていた予定も全てなくなったことで、直ちに日本へ逃げることにしました。2週間以上予定もなく小さい自室にいるのは辛いことに加え、彼らは基本的にマスクをしていないこと、公衆衛生のレベルが日本に比べて低いこと、この期に及んでも彼らはバーで夜遅くまで飲んで騒いでいる(声が深夜まで聞こえていた)ことなどを考えると、さらに感染は加速するだろうと思ったためです。当日夜の航空券を即予約、往復券ですが現在KLMオランダ航空(エールフランスの共同経営社)では予約変更手数料が特別免除となっているのでとりあえず4月頭の便を適当に予約。突然の予約でしたが片道472€と特別高いわけではありませんでした。
そそくさと荷造りをし、フランスを脱出。夜だからなのかこの状況だからなのか、シャルル・ド・ゴール空港はまさにもぬけの殻…。機内は空席が割とありましたね。
日曜日の夜に日本に着きましたが、その後フランスでは商店の閉鎖、逐一証明書が必要となる外出制限、EUはシェンゲン圏境封鎖(一部加盟国は国境封鎖)、そして今日には日本政府がフランスを含むヨーロッパ各国他の日本人を含む入国者の14日間の隔離措置を21日から行うことを発表しました。今思えば躊躇なく帰ってきて本当に良かったなと思っています。
突然の帰国なので特に予定もありませんが、日本にも感染リスクがないわけではないので基本的には家で読書などしていようかなと思っています。両親もほとんどの日がテレワークになっていて、久しぶりの一家団欒の日々です。

今回はオーケストラプロジェクトと日本への逃亡の話でした。帰国時期は未定ですので、それまでは不定期更新とさせていただきます。

サン・ジョルジュ・コンソートの演奏会

26 2月 2020
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今回の主役、 セバスティアン・ド・ブロサール(Wikipediaより加工の上転載)

今回は先週参加した「サン・ジョルジュ・コンソート」の演奏会についてご紹介します。
「サン・ジョルジュ・コンソート」は同じパトリックの弟子であるアレクサンドル・ガルニエくんが主宰していて、ヴェルサイユバロック音楽研究センターの歌手2人と器楽奏者数人で構成されています。年末にプロモーションビデオを撮影したので、良かったらこちらをご覧ください。

「プティ・ヴィオロン」にも参加して下さったファゴットの長谷川太郎さんも一緒に演奏しています。
本当はこの撮影の2週間後に本番をやるはずだったのですが、男性歌手の親族に不幸があって直前のリハーサルがすべてキャンセルになり、演奏会も中止になってしまいました。
今回の演奏会はそのやり直しというわけなのですが、長谷川さんは日程上参加できず映像に出ているヴィオルの女の子は事情により交代、プログラムも少々入れ替わり昨年のリハーサルはあまり意味のないものになってしまいました(笑)。
プログラムは「セバスティアン・ド・ブロサールの図書館での旅」と題されていて、様々な楽譜を収集していたフランスの理論家、作曲家であるブロサールの曲とそのコレクションに含まれているドイツ、イタリア、フランスの音楽を織り交ぜるという構成でした。ドイツはシュッツ、ブクステフーデ、ブルーンス、イタリアはベルターリ、メルラ、カレザーナ、フランスはシャルパンティエ、デュモンを演奏しました。
コンセプトと選曲がとても良い演奏会でしたが、中でも名曲だったのはブロサールのオラトリオ「悔い改めた魂と神との対話Dialogus poenitentis animae cum Deo」です。
https://youtu.be/m9luWuNvm4E
次々に拍子が変わっていき、とても切迫感がありますね!
ブロサールの作品はあまり演奏されませんが、この曲は編成が少なくコストもあまりかからないので業界の皆様は是非レパートリーに加えてみてはいかがでしょうか。

さて企画は大変良かったのですが、メンバーとリハーサルには少々問題がありまして…。
まずリハーサルの開始時間になってもフランス人たちは平気で遅れてくるし、来たら来たでゆっくりコーヒーやお茶を淹れだす始末で…フランスの学生アンサンブルってこういう感じなんですかね。始まっても関係ないお喋りは多いし、演奏中に誰か発言しても止まるまでに時間がかかったりと、とにかくタイムロスが多いんです。その上全然譜読みしてきてなかったり、テンポ通り演奏できなかったりと、日本の現場だったら半分くらいの時間で仕上げられたんじゃないかと思いました。
あとはメンバーの中にカップルが2組いるからかどうなのか、遠慮のない会話を続けているうちにヒートアップして皆が苛立ってくることもしばしば。リハーサル初回だったか、女性歌手が耐えられなくなって途中で帰ってしまったこともありました。
結果、前日のリハーサルになってもまともに曲の最後まで通して弾けることは殆どなく、当日も本番ギリギリまでリハーサル(という名の半ば譜読み)が続けられました。本番は途中で止まることこそありませんでしたが、クオリティの方は「お察しください(笑)」でした。
8月にもまたプロジェクトをやるらしく今のところ参加予定なのですが、あまり気が進まないなあ…と内心思っています。まあ少し稼げるのが幸い。リハーサル終盤は彼らもタイムロスが多いことを自覚していたので、次は改善されることを祈ります。うーん、無理かなあ。

次回は「新型コロナウィルスとアジア人差別」について書いてみようと思います。

ヴェルサイユの球戯場と室内楽演奏会

26 6月 2019
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たくさんのヴェルサイユ市民に来場していただきました

今週は毎日30℃を超え、非冷房の家に長時間いるのはかなり厳しいです。それだけでなく湿度も60-70%あるので昨年到着した時よりも暑さを感じます。帰国まであと20日あまり、何とか耐え凌ごうと思います。
先週の金曜日はリュリの「町人貴族」を王室歌劇場で観てきました。通常のオペラ公演だと字幕がフランス語と英語の両方出るのですが、今回は語りの部分が多いためか英語の字幕のみ。私はフランス語の方が得意なので一生懸命聞きとろうとしますが、何せ喜劇なのでまくし立てて話すことが多くなかなか付いていけず…。一応話の流れは覚えていますが笑うべきポイントで笑えないのは悲しいですね。来年も違う団体が「町人貴族」をやるみたいなので、もう少し理解できるように精進しようと思います。

今回はヴェルサイユの球戯場で先週行われた室内楽演奏会の模様についてお伝えします。
まずヴェルサイユの球戯場(サル・デュ・ジュ・ド・ポームLa salle du Jeu de paume)はサン=ルイ地区、ヴェルサイユ地方音楽院の近くに位置しています。「ジュ・ド・ポーム(単にポームとも)」は今日のテニスの元となった競技で、直訳すると掌遊びという意味です。これは昔ラケットを使用するようになるまでは掌で直接ボールを打っていたことに由来します。16世紀以降フランスの貴族の間でこの競技は流行し、宮殿や貴族の城館に盛んに併設されました。ヴェルサイユ宮殿に併設された球戯場は元は宮殿の南側、現在のグラン・コマンがある場所にありましたがこの建物の建設により撤去され、1686年に現在の球戯場が完成した後は王族を始め宮廷人の間で親しまれました。
それだけではただの屋内テニスコート場なのですが、この球戯場がフランス史の表舞台に立つ日がやってきます。1789年6月20日、前日夜に自らの議会場を強制閉鎖された第三身分(平民)を始めとする国民議会の議員たちはこの球戯場に集結し、王国の憲法が制定されるまでは決して解散しないことを宣言しました。これがフランス革命の一連の事件の中でも有名な「球戯場の誓い」です。ちなみにこの時点ではまだ立憲君主制を目指しており、後に国王と王妃を処刑することになるとは誰も考えていませんでした。
こうしてフランス革命期の事件の舞台となったことでこの建物は国有化され、その後1883年に革命博物館として整備されました。今日見ることのできるジャン=シルヴァン・バイイの像とその周りにあるオブジェ、議員たちの胸像や壁面の文字はこの時のものです。
この博物館は入場無料で気軽に入ることができるので、ヴェルサイユを訪れた際は是非お立ち寄りすることをお勧めします。内部はテニスコートにバイイの像や議員たちの胸像、ショーケースに議員たちの宣誓署名書、ジュ・ド・ポームのボールやラケット等が展示され、かつて試合の観客席であった部分の壁面には当時の風刺画や革命の各事件の銅版画、「ラ・マルセイエーズ」の当時の楽譜の複製などを見ることができます。北側の壁には『球戯場の誓い』の壁画があり、当時の様子を偲ぶことができます。

さて、このフランス革命の舞台で先週、「球戯場の誓い」が行われたのと同じ6月20日にヴェルサイユ地方音楽院の室内楽発表会が行われました。毎年学期末の発表会はここで行われるのが通例のようで、先週紹介した「モリエール月間」とも提携しています。舞台は北側の壁画を背にして設置され、コートには観客のための椅子が並べられました。室内楽の授業のチームの他にハープ科の2人も参加し、ソナタと協奏曲を共演しました。クラシック弓を師匠パトリックから貸してもらい、久しぶりに古典派の音楽を演奏する機会となりました。その他4つのプログラムも3つに参加、蓋を開ければほぼ全てに出場していました。
この会場はテニスコートであり音響は特に考えられていないと思いますが、天井が高いこともあり響きがとても良いのです。ただ採光窓が多く日中のリハーサル時は日光が強く差し込み、時々楽譜が眩しくて見えなかったりチェンバロやハープの調律には少し不具合でした。それも19時からの本番では解消され、多くのヴェルサイユ市民に囲まれながら無事学期末の発表会は終わりました。
終演後は近くのヴェルサイユ地方音楽院の庭園で一部観客を交えたパーティーが行われ、その後も自主的な2次会を仲間と楽しみながら夜は更けていきました。

ヴェルサイユ地方音楽院の1年目はこれで終了です。素晴らしい講師陣や校舎、ヴェルサイユ宮殿や研究センターとのプロジェクトに参加することができ大満足の1年でした。来年度もまた興味深いプロジェクトがありそうなので、このブログでご紹介できればと思います。
来週はアルルの衣装祭りについてお送りします。

ヴェルサイユのモリエール月間

19 6月 2019
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6月のヴェルサイユでは、この広告を目にしない日はありません

年度末ということで、私の所属するヴェルサイユ地方音楽院はもちろんのこと、ヴェルサイユバロック音楽研究センター、パリ地方音楽院に所属する学生仲間の修了試験で先週頃から忙しくなってきたこの頃です。
年度末の試験事情は日本も大体同じですが、フランスの学生たちはどうもアンサンブルのオーガナイズが遅い、緩い傾向にあります。2週間前になってから依頼してきてそこから日程調整したり、楽譜や担当パートに関する情報が今一つ不明瞭だったり、引き受ける方は何とも苦労が絶えません…。試験はそれぞれ今週、来週辺りに集中していて、今週は室内楽の授業の発表演奏会も控えているのでオーガナイズが遅かったグループはどうしてもリハーサルが少なくメンバーの出席率も良くないため、中には立ち消えするものもあったり。来年は私も修了試験があるので、オーガナイズには気を付けよう…。
さてこれらヴェルサイユ地方音楽院、及び研究センターの公開修了試験は今週のテーマであるモリエール月間と連動していて、公演一覧に記載されています。
まずモリエールとは誰かというところからお話しすると、彼は17世紀にフランスで一世を風靡した喜劇作家であり、コルネイユやラシーヌとも並ぶフランス古典主義作家です。医者や教会、宮廷事情の鋭い風刺劇でパリの観衆から高い人気を得た他、ルイ14世にも寵愛されリュリと共に「町人貴族」を始めとしたコメディー・バレを制作していました。
そんな彼の名前を冠したモリエール月間(Le Mois Molière)は1996年から開始され、今年で24回目を迎えます。毎年6月に一か月間、ヴェルサイユの様々な施設でプロ・アマチュア団体による劇、演奏会、舞踏、サーカス、展覧会や講演会が催されます。公演内容はモリエールや17世紀に限ったものではなく、その公演の多さたるや日本の音楽祭など遠く及ばないほどで、文字通り1か月間毎日、何かしらの公演が複数行われています。一部は予約制、入場料を取る公演もありますが大半は入場自由で無料、ヴェルサイユ市民にも大いに親しまれているようです。今月の街の広告表示はほとんどがこの赤いモリエール月間の広告で、多くの商店の窓にもポスターが貼られています。
今年私が関わったものとしては王室礼拝堂木曜演奏会でのカンプラのレクイエム、大厩舎での国王の24のヴィオロン、ヴェルサイユバロック音楽研究センターの試験の1つ(モリエールのプログラム)、今週近所の球戯場で行われる室内楽授業の発表演奏会がありました。大厩舎や球戯場など、普段はあまり演奏では使用しない歴史ある空間で演奏することができるのもこのイベントの力でしょう。
しかし残念ながら観客としてはあまり多くの公演には行けず、肝心のモリエール作品上演にはついに行くことができませんでした。今週金曜日に王室歌劇場で「町人貴族」を観ますが、劇作品の鑑賞はまた来年のお楽しみということにします。
先週は研究センターの歌手の1人が修了試験として、市庁舎の大広間でカンタータ・フランセーズの演奏を行っていましたが、17世紀の朗誦法やジェスチャーを再現していてとても素晴らしかったです。しかしこれはフランスの聴衆がいて、しかもヴェルサイユのあの空間だからこそ演者・聴衆共にあれほどまでに白熱したのだと思うと、今後私はどう演奏活動を行っていけば良いかを大いに考えさせられました。

ヴェルサイユ宮殿の庭園の散策にも良い季節ですので、来年フランスへ旅行を考えている方は是非6月にヴェルサイユに来て、モリエール月間を楽しんでみてはいかがでしょうか。
来週はヴェルサイユの球戯場とそこでの室内楽演奏会についてお伝えしようと思います。

「国王の24のヴィオロン」復元プロジェクト

29 5月 2019
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研究センター所属の弦楽器たち

日本ではもう真夏日になる地方もあるそうですね。こちらもようやく暖かくなってきましたが、まだ日によりけりです。
先週の活動は「国王の24のヴィオロン」復元プロジェクトによるリュリの「平和の田園詩」上演一色でした。

今回の演奏の様子はこちら

このプロジェクトは2008年からヴェルサイユバロック音楽研究センターが行なっています。現在ではヴァイオリン、ヴィオラ、チェロといった弦楽器はサイズが殆ど画一化されていますが、19世紀以前はそれ以外にも微妙なサイズの楽器がたくさんあり、特にヴィオラは担当する音域によって殆どヴァイオリンと変わらない小さなものから腕に収まりきらない大きなものまでサイズが豊富でした。17世紀フランス宮廷のオーケストラ「国王の24のヴィオロン」も例外ではなく、通常5声部からなるパートそれぞれが違うサイズの楽器で演奏されていました。即ち6挺のDessusと呼ばれるヴァイオリン、それぞれ4挺ずつのHaute-contre、Taille、Quinteと呼ばれるサイズの異なるヴィオラ、6挺のBasseと呼ばれるチェロよりも大きく調弦も一全音下に調弦される楽器です。これらの楽器のセットがパトリック・コーエン=アケニヌ氏と2人の楽器製作者によって製作され、プロジェクトの演奏に用いられています。製作の様子はこちらの動画をご覧ください。
今回私はDessusを担当しました。プロジェクトの最初に楽器の蔵出しが行われ、私もそこに同席させていただいてほとんどの楽器を試奏することができました。選んだのはPolidor(ポリドール)という楽器。今日一般的なヴァイオリンのサイズよりほんの僅かに小さいもので、私の楽器と比べたところ弦長はかすかに短い程度ですが箱が小ぶりです。他にもバルタザールやメルキオールといった名前が一台ずつ付けられています。見つけられませんでしたがカスパーもいるのでしょうか。エヴァンゲリオンのスーパーコンピューターではありませんよ(笑)。製作されてからまだ10年経っていない新作楽器ですが、1年に2、3回学生に使われるか使われないかでほとんどは楽器庫かショーケースにあるこれらの楽器、正直状態が良いとはあまり言えません。私のポリドール君も6台中最も調子が良かったものの蔵出しの際に弦や魂柱の位置を調整し、やっと演奏に耐えられるかなというレベルです。今後もっと演奏機会が増えれば状態も良くなるはず。
オーケストラの指揮はパトリックが行いアンサンブルのメンバーも数人演奏に参加していますが、殆どは周辺の音楽院の学生による演奏です。個々のレベルは…うーん、私が一年目にしてコンサートマスターを拝命するくらいです(笑)。研究センターの歌手のレベルが高いだけに、器楽の演奏レベルももう少し高めたいところ。ちなみに今回は24台全ての楽器を使っているわけではなく、人数比は4-3-3-3-4。
リハーサルは月曜日、火曜日、木曜日の3日間ほぼ一日中行われましたが、私含め日頃慣れない楽器でのアンサンブルなのでもう少し下慣らしの期間があれば良かったなと思います。金曜日には当時も演奏が行われ「平和の田園詩」の舞台になっているソーのオランジュリー(オレンジ温室)で演奏会が行われました。地域でも大々的に宣伝が行われていたようで、チケットは完売。縦長のオランジュリーの最後方まで設けられた客席は一杯になりました。
ちなみに「平和の田園詩」は、スペインとの大同盟戦争終結によるラティスボンの和約が1684年に締結されたことによる戦勝祝いとルイ14世賛美のための作品で、翌85年8月16日にルイ14世臨席の下、今回も演奏したソーの館のオランジュリーで上演されました。台本はあの有名な悲劇作家ラシーヌ。ちなみに現在あるオランジュリーは残念ながら後年になって建てられたもので、当時演奏されたオランジュリーではありません。それでも当時と同じ地で作品を上演できるのは感無量というところ。
満員の観客の熱気と、そもそものオランジュリーという室温が上がりやすい建物の構造もあって上演中は暑く、調弦を絶えず確認しなければならない本番でした。音を採るチェンバロも調律が崩れてくるので、コンサートマスターとして調弦を行う際は難しかったですね。
続いて日曜日にはオルセーの県立音楽院のホールで演奏、最後は来週末のヴェルサイユ大厩舎での演奏です。あの巨大な空間での演奏はどうなるのか、楽しみなところです。

次回はヴェルサイユ宮殿シリーズの続編、王妃のアパルトマンをご紹介します。

ノルマンディー地方とオーケストラ

1 5月 2019
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第二次世界大戦で焼け野原になったものの、見事に復興を果たしたカーンの街

平成が終わり、令和の時代が始まりましたね。日本は祝祭ムードかと思いますが、フランスではメーデーのため過激なデモ集団が黄色いベスト運動と合流して活動し、パリは毎週土曜日と同じく警戒態勢になっています。

さて、今週は先週まで遠征に行っていたノルマンディー地方とそのオーケストラについてです。
今回参加したオーケストラは普段はモダン楽器で活動している40代~50代のメンバー中心の室内アンサンブルで、今回コーエン=アケニヌ氏の指導の下バロック弓とガット弦に挑戦したとのこと。管楽器はさすがに難しかったのか個別に集められたメンバーでした。おそらく指導は一週間程度であっただろうと思いますが、それにしては上出来でしたね。ましてプログラムはフランス・バロック屈指のレパートリー、ルクレールとラモー、古楽器奏者でさえ演奏は容易ではありませんので。
リハーサルは1週間前に2日、本番前に1日の計3日でした。細かいディテールは詰められなかったところは挙げればキリがありませんが、師匠団員ともどもよく健闘したのではないかと思っています。師匠は複雑な曲にもかかわらず終始弾き振りで、その牽引ぶりは非常によく勉強になりました。
1回目の本番はオーケストラの本拠地であるカーンの私設劇場で行われ、2回目はバスで移動しコタンタン半島のレ・ピューLes Pieuxという街の音楽学校で行われました。道中2時間超でしたが、よく眠れました(笑)。

さて、本番の日は活動が午後からでしたので、カーンの街を観光しに回りました。
まずは市街地の中に位置するサン=ジャン教会。12世紀に完成したこの教会ですが、湿地帯に建設されたため地盤が弱く北西方向に傾斜してしてしまっています。近年基礎工事が行われ強度上は問題ないようですが、正面から見ると感覚がおかしくなったのかと思ってしまいます。壁面はゴシック様式にしては随分と装飾が簡素ですが、百年戦争を始め特に第二次世界大戦の連合国軍とドイツ軍の戦闘による壊滅的な被害から再建されているので、殆どオリジナルとは言えません。内部で特徴的だったのはアーチのリブの多さと、ステンドグラス部分の枠組みが曲線主体になっていること。どことなくオリエント風な感じがするのは気のせいでしょうか。
次は男子修道院と付属のサン=ティエンヌ教会。この修道院は征服王ウィリアム1世が血縁関係にあるマチルダと結婚したため、当時近親婚を禁じていた教皇に破門された際に許しを請うべく1066年に寄進したのが由来となっています。ところが修道院の建物は完全に18世紀の様式。隣にある教会だけがロマネスク様式になっています。これはどうしたことかというと、フランス革命後ナポレオンによって学校に改装されたためなのです。室内も18世紀以降の改築の手が入っていますが、中庭の回廊部分は11世紀の雰囲気を味わうことができ、1層目から3層目までの大小それぞれのアーチはとても美しかったです。
サン=ティエンヌ教会は内外共にロマネスク様式の教会でした。アーチを支える円柱と、リブの多さがやはり特徴的です。内陣部分は天井から放射状に延びるリブ・ヴォールトが下の円柱まで線で結ばれ、その間にアーチが組み合わされた非常に美しい設計でした。
ちなみに修道院近くには古サン=ティエンヌ教会跡というものがあり、1793年から使われていない廃教会です。革命後の混乱に乗じた破壊活動や第二次世界大戦の砲撃などで半分近くが完全に崩壊しており、内部に立ち入ることもできません(というか内部が外から見える。)廃教会というのは初めて見ました。
カーン城の手前には立派な尖塔とバラ窓、凝った彫刻を持つサン=ピエール教会がありますが、現在修復中で立ち入ることはできませんでした。特に後陣部分の壁面、欄干とそこから伸びる小さな塔はカーンの他の教会とは異なり細かい装飾が施されています。13世紀から16世紀まで建設が続き、ゴシック様式とルネサンス様式が混ざっているのが特色かと思います。
カーン城はノルマンコンクエスト時代の1060年頃に征服王によって築かれた城で、高い壁と大きな見張り台が今日でも威容を誇っていますが残念ながら肝心の塔は残っていません。内部は残存する付属の建物を利用したノルマンディー博物館とモダンな建築のカーン美術館があり、今回はあまり時間がなかったので美術館だけ入りました。15世紀からのイタリア、フランス、フランドルの絵画コレクションが多数あり、空いている館内でじっくりと鑑賞することができました。

土曜日の深夜にピューからカーンへ帰り、日曜日はヴェルサイユへ帰るだけの行程でしたがそれではもったいないので、少し足を延ばしてバイユーBayeuxの街を訪れました。目的はタペストリー美術館と大聖堂、そしてノルマンディー上陸作戦の激戦地オマハ・ビーチ。しかし日曜日はバスが全面運休でオマハ・ビーチへは行くことができませんでした。
タペストリー美術館は17世紀末に建てられた建物を使用していますが、内部は完全に美術館として改装されています。ノルマンコンクエストの物語を描いた全長63.6mの長大な絵巻物となっているこのタペストリーを展示するために、U字型の特別なショーケースが用意されています。世界史の授業でかすかに記憶のあるノルマンコンクエスト、細部にわたるまで描かれているので鑑賞前に簡単に予習することをお勧めします。鑑賞の際は日本語の音声ガイドを借りることができますが、進行が早くゆっくりと鑑賞することができません…。しかも機器には再生停止ボタンがあるのに止まらない(笑)。結局最初は音声を聞くのを途中でやめタペストリーを観察しながら史実を予習し、その後音声ガイドに従って2周しました。染色された毛糸により麻布に刺繍された人物や馬は900年以上も経った現在でもとても色鮮やかで、登場人物の表情や動作も生き生きしていると共に、焼き払われる家屋から逃げ出す母子や身ぐるみを剥がれバラバラになった兵士の死体など、戦争の悲惨さも見せてくれます。
次にバイユー大聖堂を訪れました。ノルマン・ゴシック様式を代表するこの大聖堂は外部、内部とも緻密なアーチの配置と装飾が非常に美しい荘厳な建築です。特に外壁の円柱は3/4よりさらに前面に出ていて、遠くから見ると完全な円柱のように見えるのと、内部の壁面には通常は何も装飾がされないアーチ間の平面部分にも幾何学模様などが彫り込まれ、それらは単一ではなく各部で違ったデザインとなっています。アーチの多彩な幾何学模様の装飾も、どことなく東洋的な印象を受けるのはなぜでしょうか。11世紀に建設されたこの大聖堂は何度か火災に遭い再建が行われていますが、建築当初の雰囲気は正面の塔と地下聖堂で感じることができます。第二次世界大戦の際は壊滅的な被害を受けたカーンとは違い、連合国軍によっていち早く解放されたため被害はありませんでした。ちなみにこの大聖堂に展示されるために作られたのが前述のタペストリーなので、聖堂を見る際はもう行われないであろうタペストリーの展示風景を想像するのも一興でしょう。
最後にオマハ・ビーチに行けなかった代わりに1944年ノルマンディー戦争記念館を訪れました。内部は上陸作戦から内陸の侵攻作戦の様子を順を追って紹介していて、当時の通信機器や軍服、戦車や大砲などが陳列されていました。近代兵器にはあまり興味がないのであまり詳しくは見ませんでしたが、記録映画の上映では当時の爆撃や砲撃の様子が延々と紹介されていて、タペストリー美術館同様改めて戦争の悲惨さを感じました。いつの時代も人間のやることは変わっていませんね。

今回はノルマンディー地方とそのオーケストラについてお伝えしました。次回はヴェルサイユ宮殿にほど近い、王の菜園を紹介したいと思います。

ヴェルサイユ宮殿観光の手引き④

3 4月 2019
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ヴィクトワール王女の大広間

新元号「令和」が発表されましたね。遠く離れたフランスでも4月1日は日本人同士でこの話をしていました。平成生まれの私としては改元は始めてなので何だか感慨深いです。
先週は語学学校で毎月末に行われている校外学習でパリ高等裁判所を見学してきました。日本でも見たことのない実際の裁判の様子に加え、裁判官、弁護士共に黒い法服を着ていたのが印象的でした。建物はパリ郊外にあり、近代的な建物で法廷も会議室のような感じでした。
先週末には師匠パトリックのリサイタルが小さな教会で行われました。テレマン、ビーバーとJ.S.バッハのパルティータ2番という完全無伴奏リサイタル。9月から師弟関係を開始しましたが初めて「本気」の演奏を聴くことができました。学ぶべきことはまだまだありそうです。
今週は木曜演奏会に向けてヴェルサイユバロック音楽研究センターの学生と少年合唱団と共にリュリの名曲《ミゼレーレ》に取り組んでいます。指揮はあの有名なオリヴィエ・シュネーベリ、今まで演奏会で何度か見かけましたが共演するのは初めてです。彼の熱血指導、特に歌詞の朗誦法に関してはとても素晴らしくて、歌手たちは皆若いにも関わらず今まで経験したことのないような彫りの深い表現を伴った歌唱を披露してくれます。やはりここに来てよかった!と思うと同時に、改めて格の違いを思い知らされたという感じですね。

さて、今回のヴェルサイユ宮殿観光ツアーは地上階の王女たちのアパルトマンです。
「王妃の階段」を下りて一度栄光の中庭に出て、宮殿正面に向かって進みます。白と黒の大理石が敷かれた部分は特に「大理石の中庭」と呼ばれ区別されており、ルイ14世の時代からここで野外オペラ上演などが行われています。ヴェルサイユ宮殿の核であるルイ13世の小城館に三方を囲まれ音響もそれなりにあるようですよ。機会があったら観劇してみたい!ここで記念撮影されている方も多くいて写り込むのは申し訳ない気にもなりますが、順路なので中庭を進み正面中央の扉から中へ入りましょう。
巨大な大理石の円柱の間を抜けると、いくつかの彫像が置かれているだけの割とそっけない回廊があります。鏡の回廊の下の部分にあたるこの「下の回廊」はルイ・ル・ヴォーによって建築され、現存しない国王の浴室へと続いていました。普通なら何も見ず素通りしてしまうかもしれませんが、是非彫像を見てください。春夏秋冬、四代元素(水、土、火、空気)が擬人化されています。これらの題材は庭園を見る際にも重要になりますので頭の隅に留めておきましょう。
右手にある通路を進むと王女たちのアパルトマンに入ります。ヴェルサイユの儀礼では、王家の子供たちは召使い付きのアパルトマンを与えられましたが、今日ここにあるのは革命による王家の終焉により最後の持ち主となったヴィクトワール王女とアデライード王女のものです。革命の際に調度品が散逸したのに加えて、ルイ=フィリップ王がここにも展示室を作ったため今日見られる姿は復元されたものですが、2人の王女の生活の様子を思い浮かべることができます。
まずはヴィクトワール王女のアパルトマンから。最初の部屋は第一控えの間で、装飾はほとんどなく簡素なものです。壁には女性の肖像画としてはとても大きいサイズである3枚が掛かっており、右から順にヴィクトワール王女、姉妹の中で唯一結婚しスペインへ嫁いだエリザベート王女、アデライード王女です。このアデライードの肖像画は過去に私がライナーノーツの制作に協力したCDのジャケットになっていて、最初に訪れた時すぐにそれと分かりました。
次は第二控えの間。第一控えの間より装飾は格段に多くなりますが、国王の大アパルトマンで見られたようなバロック装飾とは異なり繊細なロココ様式の木彫です。なおこの王女たちのアパルトマンについては多くの装飾が失われており復元されたものもあるようですが、どれがオリジナルでどれが復元されたものなのか見ただけではわかりません…。本文では今日の状態をお伝えします。
大広間に入ると、並べて置かれた2台のチェンバロが存在感を放っています。残念ながら王家の楽器ではありませんが、18世紀のオリジナル楽器とのこと。詳しく見たいところですがロープが張られ近くで見られないだけでなく、ふたが閉められカバーが掛かっています…。この王広間で2人の王女はしばしば演奏会を開き、自分の楽器演奏の技量を披露しました。ヴィクトワール王女はチェンバロとハープ、アデライード王女はヴァイオリンを弾きました。彼女たちはどの肖像画を見ても特徴は明らかで、ヴィクトワールはふくよかで温厚、アデライードは細身で生き生きとした感じですが、これは彼女たちの楽器にとても良く合っていたことでしょう。ちなみにこの部屋には一部にバロック様式の装飾を見ることができますが、これはかつてこの場所にあったルイ14世の浴室の一角である八角形の部屋の名残です。壁には肖像画が多くかかっていますが、その中には幼少期より修道院へ送られ母親である王妃が長らく会うことができなかった、ヴィクトワールを含む4人の末の王女たちを見ることができます。
寝室は緑色を基調とする夏用の布で装飾されていますが、これは当時の製作技法により復元されたものです。他のアパルトマン同様、冬はビロードの布に取り替えられますが、今日の宮殿の調度が夏用になっているのは革命で王族が去ったのが夏であったからです。壁の装飾は壁布が大半を占めるためあまり多く見ることはできませんが、天井と壁の間には子供(天使?)や女性をモチーフにした優美な装飾を見ることができます。この部屋にも大きな肖像画が掛かっていますが、赤いドレスを着てヴィオールを弾いている女性は24歳で亡くなったアンリエット王女です。彼女もまた音楽を愛好し楽器演奏に長けていました。その他特徴のある家具は向かって右の暖炉の上に置かれた緑の陶磁器の壺でしょうか。これらは革命の際に売られて散逸しましたが、近年宮殿が買い戻したヴィクトワールの所有品の一つです。
次は奥の間です。寝室が公的空間であるのに対して、奥の間は真にプライベートな間であり、家主に特別に招かれた時のみ入ることができました。部屋の装飾は優美な木彫が多く使われていますが、天井と壁の間の装飾は楽器をモチーフとしたものです。窓際には妹ヴィクトワールの肖像の横で机に向かうアデライードの肖像画を見ることができます。生涯未婚で子供もいなかった2人の王女たちにとって姉妹の絆は大事なものであったのでしょう。
次の部屋は同じく私的な空間である図書室です。現存するのはヴィクトワールの図書室のみであり、その上にあったアデライードの図書室は失われてしまいました。2人はとても読書好きで蔵書が大量にあり、科学の本なども読んでいたそうです。ヴィクトワールの蔵書は緑色、アデライードの蔵書は赤色の製本で整理されていました。
ここから先はアデライードのアパルトマンになりますが、図書室を軸に今度は私的空間から公的空間へ出ていくことになります。まず最初は奥の間ですが、おそらく大部分の装飾は失われたのでしょう、奥の間にしては装飾が少ない印象です。このアパルトマンはかつてルイ15世の公妾であったポンパドゥール侯爵夫人が所有していたものであり、この奥の間は「赤い漆の間」と呼ばれていました。
次は寝室。ヴィクトワールの寝室とほぼ同様で、ここにもアデライードとヴィクトワールの肖像画が対になって掛けられています。一連のアパルトマンには一体何枚彼女たちの肖像画があるのでしょうか。天井の端には子供(天使?)をモチーフにした装飾があります。彼女たちのアパルトマンでたびたび見られるこの題材は、もしかすると子供のいなかった2人の母性をくすぐるものだったのかもしれないなと思いました(違うかもしれません)。部屋の右には高級家具職人ジャン・アンリ・リーズナー製作の精巧な箪笥、その上に金箔ブロンズの燭台があります。
アデライードの大広間には室内用のオルガンと傍らにハープが置かれているのが目につきます。室内用と言ってもいわゆるポジティフオルガンではなく、教会などにある大オルガンをそのままスケールダウンした感じの豪華なもので、装飾も凝っています。中央の二匹の犬(グレイハウンドという犬らしい)は女性を表す婉曲表現で、この所有者が王女であったことを示しています。壁にはまたしても2人の王女の肖像画がありますが、右にあるアデライードの肖像画はよく見ると足元にいる犬が楽譜を踏んでいます…何かの表現なのでしょうか。
あとは簡素な第二控えの間と第一控えの間を見て終了…と思いきや、いきなり大きな部屋に出ます。弓兵の上着の名に由来する「オクトンの間」と呼ばれるこの場所には元々衛兵の間があり、その後ポンパドゥール夫人がアパルトマンの第一、第二控えの間に改装して以来アデライードのアパルトマンの一部として革命を迎えますが、その後かつての衛兵の間を復元したようです。大広間側には金色の鉄柵があり、かつてはルイ14世の浴室へと続いていました。
最後に「大使の階段」の入り口ホール跡を通りますが、ここに大使の階段の模型があります。近くに行って見たいのですがロープが張られていて遠くからしか見ることができません。見せてくれればいいのにー。
こうして再び栄光の中庭へ出て、王女たちのアパルトマンの見学は終了です。宮殿の見学を終了する際は反対側、最初に中庭に出たところから「Sortie(出口)」の案内に従って階段を下っていくとオーディオガイドの返却所があります。持ったまま出ようとすると警報が鳴るので必ず返しましょう。

今回は王女たちのアパルトマンについてお伝えしました。正殿とそれに続く棟で公開されている場所は他にルイ=フィリップ王の整備した戦争の回廊やフランス史博物館などがありますが、いずれも旧体制時代のものではないため割愛したいと思います(気が向いたらやるかも)。庭園やトリアノンは、もう少し暖かくなってからのお楽しみということで。
来週はところ変わって「ヴァンセンヌ城」をお伝えしたいと思います。

ヴェルサイユ宮殿観光の手引き③

27 3月 2019
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ヴェルサイユ宮殿の代名詞、鏡の回廊

日本ではもう桜が咲いていると聞き及びますが、ここヴェルサイユでも実は咲いています。ヴェルサイユ・シャンティエ駅前の工事進展と共に桜が植えられ、木は小さいながらも元気よく咲いています。桜と花見については追って特集を組みたいと思います。
先週は学生オーケストラの本番が2回、王室礼拝堂とパリ郊外の小さな教会でありました。いやはや、とにかく終わってよかったという感じですね。これらの作品にはプロの現場でまたお目にかかりたいものです。

さて、今回のヴェルサイユ宮殿ツアーはついに宮殿の中心部へ、あの大回廊へ参ります。
カーテンが引かれた薄暗いアポロンの間を出ると再び明るい空間となり、左手にはもう既にあの鏡の回廊が私たちを出迎えていますが、焦らずまずはこの部屋をじっくりと見ましょう。「戦争の間」と呼ばれるこの部屋は回廊を挟んで反対側にある「平和の間」と対になっており、3つの空間がルイ14世の成し遂げた軍事的・民事的功績を讃える設計になっています。この部屋は特に1678年に終結したオランダ戦争が主題となっており、天井の中心には「勝利の女神たちに囲まれて雲の上に座る武装したフランス」がルイ14世の肖像が描かれた盾を持ち、周り4つの絵に雷を落としています。これらはそれぞれ当時の敵国でフランスに敗戦したオランダ、スペイン、神聖ローマ帝国と、4つ目は埋め合わせとして「反抗と不和の間で怒り狂う戦争の女神ベローヌ」となっています。4つの絵の間には2人の天使がブルボン家の家訓であるNec pluribus impar(ラテン語で多数に劣らずの意)が書かれたリボンを掲げています。壁面に目を移してみれば、アポロンの間側に大きな楕円形のレリーフ「敵を踏みしだく馬上のルイ14世」があり、上にはトランペットと月桂冠を持った名声の女神2人がルイ14世へ王冠を授けようとしており、下には鎖につながれた捕虜がいます。暖炉(使用することはできずただの飾りのようです)の蓋には女神クリオが王国のこれからの歴史を石板に刻もうとしています。
さて、十分すぎるほどルイ14世の勝利と威光を見たところで、いよいよあの「鏡の回廊」へ足を進めましょう。回廊の名前にもなっている17にも及ぶ鏡の扉は庭園を望む窓と対になっていますが、当時贅沢品であった鏡をこれだけの量使用するということはフランスの豊かさと工業力を表していました。鏡の製造はコルベールの重商主義政策の一環で設立された王立鏡面ガラス製作所(今日のサン=ゴバン社)によって行われ、この製作所はやがて当時主流であったヴェネツィア製品を凌ぐ品質を誇るようになったのです。天井には1661年の親政開始から1678年のオランダ戦争終結までのルイ14世の功績が注意深く考案された見事な配置で描かれています。この素晴らしい絵画群はずっと眺めていたいところではありますが、何にせよ天井画なので首が痛くなってくるんですよね…(笑)。車の点検で使うような寝られる台車で鑑賞してみたい!のは叶いそうにもないので、じっくり鑑賞されたい方は専門書で見られることをお勧めします。何せヴェルサイユ宮殿観光はまだまだ続くのですから。後は書いていけばキリがないので実際に行ってこの感動を味わってください、と言いたいところですが一つだけ特筆するなら、是非大理石の柱のピラスター上部にある柱頭に注目してください。これは「フランス式オーダー」というコルベールの要請でル・ブランが創作したものなのです。一見コリント式柱頭に見えますが、よく見ると左右の両端は雄鶏になっており、上にルイ14世の象徴である太陽を戴くフランス王家の紋章ユリがデザインされています。こうしてギリシャやローマから脈々と続くオーダーという建築様式に新たな形を作ることによって、芸術的に優れていたこれら古代の国々と肩を並べようとしているのです。回廊を進むと奥に平和の間があり、そこから王妃のアパルトマンが続きますが、現在修復中でこの先は私もまだ入ったことがありません。平和の間の入り口付近にはシャム使節から送られた銀製のポットが展示されています。
中央付近の鏡の扉が開いているので、そこから次の国王のアパルトマンへ進みましょう。この順路は執務室から衛兵の間へ、逆の順序で進んでゆくのをお忘れなく。「閣議の間」は元々2つの部屋であったものをルイ15世が1755年に現在のような姿へまとめたので、装飾はこれまで見てきた豪華絢爛なバロック様式とは異なり優雅で繊細なロココ様式のものとなっています。戦争の開始など1世紀以上にわたり政治的に重要な決定が行われてきたこの部屋は、革命まで政府の中枢でした。ルイ15世の小アパルトマンをこの部屋から覗くことができますが、残念ながら普段は非公開です。ツアーで見学ができるようです。
次はヴェルサイユ宮殿の中心部、国王の寝室です。今までの国王の大アパルトマンや鏡の回廊でも十分すぎるほど豪華でしたが、この部屋はとにかく金、金、金。円天井までの壁面はほぼ全て金色で埋め尽くされており、装飾は他に例を見ないほどの密度です。ベッドの周りの布は季節ごとに交換できるようになっており、これは宮廷を移動する古の国王の習慣によっています。ベッドの上部には女性に擬人化されたフランスが国王の眠りを見守るという構図になっています。このように壁面は全て金箔の装飾が施されていますが、天井は対照的にただの白い漆喰で装飾や天井画はありません。その方が壁の装飾が際立つからでしょうか…。ちなみにこの寝室ができたのはルイ14世晩年の1701年で、その後の15世と16世は小アパルトマンで就寝したためこの寝室は儀式用となりました。ここまで広く豪華な寝室は寝るにはやはり落ち着かなかったのでしょうね。
さて、次は第2控えの間である「牛眼の間」で、天井付近の帯状装飾にある楕円形の窓が名前の由来となっています。以前はこの空間に寝室と控えの間がありましたが、謁見する人数が増え手狭になったようです。壁にはルイ14世とその家族の肖像画が掛けられていますが、この部屋で特筆すべきは天井付近のフリーズにあたる帯状装飾です。化粧漆喰と金箔による格子模様を背景として活気あふれる子供たちが思い思いに遊んでいる様は、おそらく老齢になったルイ14世が若かった頃の狩りや舞踏の楽しみを思い出すためのものでしょう。
次は第1控えの間ですが、「国王の公式晩餐控えの間」として国王が宮廷人や訪問客の前で夕食を摂った部屋です。テーブルには復元されたナプキンや燭台、その周りには国王や親族、宮廷人他のための椅子が再現され置かれています。壁面の装飾は第一控えの間だけあって前の部屋よりもずっと控えめなものになっています。
次の衛兵の間にはもうほとんど装飾がなく、ただの広い空間で特に見るものはありません。唯一ある暖炉上の絵画や壁の上部にある兜や矢筒の装飾はこの場所を警備した近衛兵にちなむものです。なんだかとても物足りなく感じてしまうのは、この前の部屋たちの眩い豪華さで感覚がおかしくなってしまったせいでしょうか。
この部屋を出ると、多色の大理石が用いられた「王妃の階段」となります。対となる「大使の階段」は現存しませんが、この階段も負けないほど豪華なものです。階段の横には「東洋風衣装の人物のいる宮殿の風景」の騙し絵が掛けられ、空間に広がりを持たせています。この階段を下りずに左の扉を進むと、ルイ=フィリップ王が作ったフランス史博物館となり革命以後の歴史を絵画で見ることができますが、残念ながら旧体制時代の面影はありません。

今回は戦争の間から国王のアパルトマンまでご紹介しました。次回は一階に降りて、王女のアパルトマンを見ていくことに致しましょう。

ヴェルサイユ宮殿観光の手引き②

21 3月 2019
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王はいなくとも、玉座はなくともなお輝きあり

気がつけばもう3月も後半。日本では新生活に向けての準備をされている方も多いのではないでしょうか。
先週末は参加している学生オーケストラの1回目の本番がありました。管弦とにかく人数が多い、指揮もあまり上手な人ではない…など心労の絶えないこのプロジェクト、まともに全曲が通ったことがなかったのでどうなるやらと思いましたが、案の定諸所で事故が発生…。首席としてはそのたびに処理に当たらねばならず通常の3倍ほどの神経を使いましたね。でもこれも経験。次回は王室礼拝堂の木曜演奏会です。

さて、今週もヴェルサイユ宮殿の見学を続けていきましょう。今回は宮殿の目玉の一つ、「国王の大アパルトマン」です。
「エルキュールの間」の壁に大きく掛かっている「パリサイ人シモンの家の宴」の絵に向かって右の順路を進むと、まず最初に「豊穣の間」という小さな部屋があります。この部屋は奥の扉の先にあるルイ14世の珍重品陳列室の入り口になっており、ごく一部の招待客だけが出入りすることができました。王権には付き物のこの財宝というキーワードが「豊穣」の名の由来でしょう。緑を基調とする壁紙と贅沢に使われた金色がそれにふさわしい華やかで贅沢な雰囲気を醸し出しています。ルイ14世の催す「夜会」の際にはここで冷たい飲み物などが振舞われました。壁面にはルイ14世の後継者である4人の肖像画が掛けられており、一番右がルイ15世です。知らないと見落としがちですが、奥の扉上部の天井画に描かれている金と青色の船型の容器は王権の象徴で、大切な宴会の際に置かれました。容器の中身は王のナプキンですが、王権の象徴であるがゆえに横を通る際は全員会釈をしなければならなかったそうです。
さて、この先からが国王の大アパルトマンです。

・アパルトマンとは?
この連載でも「アパルトマン」という言葉を既に数回使用してしまいましたが、そもそもアパルトマンとは何なのでしょうか。
日本の「アパート」の語源となっている英語のapartmentのフランス語なのですが、要するに建物をいくつかの部屋に分けた住居、という意味と捉えれば良いでしょう。そしてヴェルサイユ宮殿は当然王族の住居ですから、どのアパルトマンも格式の高いものとなっています。
個々に応じて多少の相違はあるものの、構成としては衛兵の間、控えの間(2つあることが多い)、大広間、寝室、奥の間(図書室など)という5つの用途に充てられた部屋があり、奥に進んでいくごとに入室を許可される人数は減っていきます。寝室というと一番プライベートな空間のように思えますが、高い身分の者は選別した訪問客を寝室にまで入れなければなりませんでした。

さて、「豊穣の間」の次からが国王の大アパルトマンになるわけですが、「豊穣の間」は上述の通り珍重品陳列室の入り口で、入室できるのはごく一部の人であったはずです。それでは訪問客はどこからこのアパルトマンへ入るのが正しいのか?答えは、今は存在しない「大使の階段」の存在です。王女のアパルトマン見学順路の最後に置かれた模型で見ることのできるこの「大使の階段」は、有色の大理石、絵画、彫刻が見事に組み合わされたとても美しく豪華な階段でしたが、ガラス窓からの明かりが乏しく次第に使用されなくなったことや、強度上問題があったことからルイ15世治世下の1752年に取り壊されてしまいました。
そんな今はなき階段に思いを馳せながら、最初の部屋である「ヴィーナスの間」へ入ります。第一控えの間にあたるこの部屋の名はギリシャ神話の美の女神と、明けの明星である金星とのどちらの意味も持っており、天井画の中心にはこの部屋の主題であるヴィーナスが、その周りにはそれぞれ神話の世界が描かれています。他の部屋や庭園もそうであるように、神話に登場する神々の威光を借りることによって権力を象徴しているのです。また長方形の部分には古代の英雄に関する場面が描かれていますが、これはルイ14世の出来事の婉曲表現に他ならないわけです。正面には古代ローマ風の衣装を着たルイ14世の彫像がありますが、これは左右の騙し絵の中にある彫像と対応しているという仕掛けになっています。
次の第二控えの間にあたる「ディアーヌの間」は、狩猟の女神であるディアーヌが主題となっています。宮殿内で「狩猟」という主題が度々登場するのは、もちろん王が狩猟好きであったことに由来するものです。規則正しく組み合わされた大理石やそれぞれの絵画もさることながら、この部屋で美しいのは中央に置かれたイタリアの巨匠ベルニーニ製作のルイ14世胸像でしょう。小さいながら、国王が若く最も美しかった姿を私たちに伝えてくれます。ルイ14世の「夜会」ではこの部屋はビリヤード場となり、国王の巧みなプレーに皆が拍手を送ったことから「拍手の部屋」とも呼ばれているそうです。
さて、次は「マルスの間」。長方形の少し大きなこの部屋は衛兵の間であり、「軍神マルス」という主題と「衛兵」が意味づけされています。主役は天井画の中心で狼に引かれた戦車に乗っており、それを中心に戦争に関連する絵画として西側に「豊穣と至福を従えたエルキュールが支える勝利の女神」、東側に「地球の権力を支配する恐怖、怒り、そして激しい不安」を見ることができます。こうして勝利や恐怖を与える軍神マルスですが、一方でマルスはフランス語で3月を意味する単語でもあります。この2重の意味から、冬の終わりと春の訪れによって花々が咲く=戦争の終わりと平和の訪れによって芸術が発展するという意味づけがなされました。暖炉を挟んで両側の壁面には対になる大きな絵が掛けられ、左側はフランス人画家シャルル・ル・ブラン作、右側はエルキュールの間にもあったイタリア人画家ヴェロネーゼ作です。これは国王が庇護するフランス・バロックとイタリア・バロックの対決であり、軍配はもちろんフランス人画家のル・ブランに上がりました(見え見えの出来レースですね)。ルイ14世の「夜会」ではこの部屋は舞踏のために使用され、暖炉の左右には楽団を配置できる場所がありましたが1750年に取り壊されました。楽士としては残念。
さて、衛兵の間を通ることができたなら、次は寝室です。「メルキュールの間」は国王に謁見することができる間であり、その折には直接請願書を手渡すことが許されていました(実際に読まれ内容が実行されるかはともかくとして。)この開かれた宮廷というスタンスこそ、多くの人々がヴェルサイユを目指した理由の一つです。しかしここは儀式用の寝室であり、実際に寝室として使われることは一部の例外を除いてありませんでした。今日置かれている寝台はオリジナルではなく、以前はアポロンの間に置かれていたものを後にルイ=フィリップ王が移動させて設置したとのことです。天井画は雄鶏が引く戦車に乗ったメルクリウスを中心に、周りにヴィーナス、科学、芸術が擬人化され描かれています。ここでも国王は芸術、科学、また文化の庇護者であることを物語っており、円天井部分の絵はそれぞれルイ14世の功績を古代の出来事に重ね合わせたものです。調度品はルイ14世時代からもう既に戦費調達目的で金銀の装飾が供出されたのに始まり、殆どオリジナルのものはありませんが、傍らにある精巧な振り子時計だけは革命前にもこの部屋にあったものです。なおこの部屋と次のアポロンの間は壁紙の日焼け防止のためかいつもカーテンが引いてあり薄暗く、立ち入れる場所もわずかで混み合うため他の人と接触しやすいです。スリなどの犯罪にも注意しましょう。
次はついに玉座のある「アポロンの間」です。自らを太陽王として太陽神アポロンと結び付けていたルイ14世の玉座の間ですから、この主題の選択は必然的でしょう。当初の玉座は高さが2.6mもあるものでしたが、これも戦費調達のため供出されてしまいました。ガイドブックには木製の肘掛椅子が置かれている写真が載っていますが、近頃は何もなく後ろにタペストリーがあるのみです。天井画は4頭の馬に引かれた黄金の戦車に乗るアポロンが、擬人化された四季とフランスが傍らで見守る中で世界を夜明けへと導いています。円天井の四隅にはヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジアが擬人化され描かれており、中央にいるアポロン(ルイ14世)が全世界を従える様が表現されているのです。装飾もこの上なく豪華で、見ていて飽きることがありません。そして壁面に目を向けてみれば、かの有名なルイ14世の肖像画が対面のルイ16世と共に、私たち訪問客を今日でも出迎えてくれます。

今週は国王の大アパルトマンを中心にご案内しました。次回はいよいよ、世界で最も美しいあの回廊へ参ります。

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